第289章 信じられない理由
翌週の朝。
倉庫の入口に、見慣れない女性が立っていた。
三十代くらいだった。
受付の前で何かを尋ねている。
「ここで働いている人を探しています」
受付の女性が顔を上げた。
「どなたですか?」
女性は少し迷ってから答えた。
「番号で呼ばれている人です」
受付の女性の表情が変わった。
「どういうご関係ですか?」
「昔、一緒に働いていました」
その会話を、海は少し離れた場所から聞いていた。
女性は周囲を見回した。
そして、名前のない男を見つけた。
「……いた」
男も女性に気づいた。
動かなかった。
女性が近づく。
「久しぶり」
男は答えなかった。
「話したいことがある」
「ここでは話したくない」
「分かった」
女性はすぐに引いた。
その反応に、男のほうが少し驚いたようだった。
「それだけ?」
「無理に連れていくつもりはないから」
男は黙った。
女性は少し離れた場所に立った。
「ただ、一つだけ伝えたい」
「何?」
「あなたがいなくなったあと、前の職場では、あなたが全部悪かったことになった」
男は目を伏せた。
「知ってる」
「でも、私はそう思っていない」
男は顔を上げた。
女性は続けた。
「あなたにも悪いところはあった。でも、全部ではない」
男はしばらく何も言わなかった。
「どうして今、それを言うの?」
「私も、ずっと黙っていたから」
女性は苦笑した。
「当時は、自分が巻き込まれるのが怖かった」
男は責めなかった。
「そう」
「だから、今さら言っても意味がないと思う」
「そうかもしれない」
「それでも言いたかった」
男はしばらく考えた。
「ありがとう」
女性は少し驚いた。
「怒らないの?」
「怒ってるよ」
「……そう」
「でも、あなたが今ここに来たことまで怒る理由はない」
女性は何も言わなかった。
そのとき、倉庫の奥から声がした。
「海さん、これお願いします」
海が振り返る。
作業員が箱を持って立っている。
「はい」
海が箱を受け取った。
その間に、女性は帰る準備をしていた。
男が呼び止める。
「また来る?」
女性は振り返った。
「来ていいの?」
男は少し考えた。
「分からない」
「じゃあ、また聞く」
女性はそれだけ言って帰っていった。
昼休み。
湊が海の隣に座った。
「さっきの人、昔の知り合いですよね」
「たぶん」
「聞かないんですか?」
「本人たちが話したいなら、そのうち話すと思います」
湊は弁当を開いた。
「俺なら、聞いてしまうかもしれない」
「どうして?」
「何があったのか知りたいから」
「知ったら、何か変わる?」
湊は箸を止めた。
「……分からない」
少しして、笑った。
「海さんに似てきたかもしれない」
海も笑った。
午後。
名前のない男が、海のところへ来た。
「さっきの人のことなんですが」
「はい」
「前の職場で、俺は一度だけ嘘をつきました」
海は黙って聞いた。
「仕事で失敗したとき、自分のせいじゃないと言いました」
「本当は?」
「俺のミスでした」
「それは、言わなかった?」
「はい」
男は苦笑した。
「だから、俺が全部悪いと言われたとき、反論できなかった」
海は少し考えた。
「でも、全部ではなかった」
「そうです」
「だから、今でも信じてもらえない?」
「たぶん」
男は遠くを見る。
「一度嘘をつくと、その後に本当のことを言っても、全部疑われることがある」
「逆もありますね」
「逆?」
「一度信じられると、嘘をついても信じてもらえることがある」
男は海を見た。
「それも怖いですね」
「はい」
二人はしばらく黙っていた。
夕方。
帰る前に、男は受付へ向かった。
「今日、昔の知り合いが来ました」
受付の女性が顔を上げる。
「そうですか」
「ここで働き続けてもいいですか?」
女性は少し驚いた。
「もちろんです」
「過去のことで、迷惑をかけるかもしれません」
「問題が起きたら、そのとき対応します」
男はうなずいた。
「分かりました」
外へ出る。
海は少し後ろを歩いていた。
男が振り返る。
「海さん」
「はい」
「俺、まだ自分の名前は言わないです」
「分かりました」
「でも、いつか言うかもしれない」
「そのときも、本人が決めればいいと思います」
男は笑った。
「ありがとうございます」
二人は別々の方向へ歩いていった。
信じることには、理由がある。
信じられないことにも、理由がある。
そして、その理由を知ったからといって、人がすぐに相手を信じられるようになるとは限らなかった。
それでも、話すことができる余地だけは、残っていた。




