第287章 知っているという噂
その翌日。
倉庫の入口で、二人の作業員が話していた。
「昨日の人、昔は別の名前だったらしい」
「誰から聞いた?」
「さあ。知ってる人がいるって」
海は少し離れたところで、その会話を聞いていた。
「名前を変えて逃げてきたんだって」
「何から?」
「そこまでは知らない」
「じゃあ、悪いことをした人?」
「分からない」
それでも、話はそこで終わらなかった。
知らないことが、別の言葉に変わっていく。
昼になる頃には、
「昔、問題を起こしたらしい」
という話になっていた。
午後には、
「どこかで人を傷つけたらしい」
という話まで出ていた。
海は作業を止めなかった。
ただ、名前のない男の様子だけは時々見ていた。
男は何も言わなかった。
いつも通り働いていた。
箱を運び、数量を確認し、作業が終われば帰る。
その日の夕方。
受付の女性が作業員を集めた。
「少し話があります」
全員が手を止めた。
「今日、ある作業員について、いくつかの話が広がっています」
誰も口を開かなかった。
「確認できている事実は、本人が現在ここで働いていること。それだけです」
一人の男が言った。
「でも、昔の名前を知ってる人がいるんだろ?」
「それは本人の過去について、その人が知っているということです」
「同じことじゃない?」
「違います」
女性は静かに答えた。
「知っていることと、確認できることは同じではありません」
別の人が聞いた。
「じゃあ、危険かどうか分からないまま働かせるんですか?」
「仕事上の安全については確認しています」
「でも、人間関係は?」
「それは、本人同士の問題です」
少し沈黙があった。
「じゃあ、噂を流してもいい?」
女性は首を横に振った。
「誰かの過去について、確認できない話を広げる理由にはなりません」
会議はそこで終わった。
帰り際、湊が海のところへ来た。
「海さん」
「はい」
「今日の話、どう思います?」
「何が?」
「噂です」
海は少し考えた。
「分からないことが多いから、話が増えたんだと思います」
「じゃあ、嘘なんですか?」
「分かりません」
湊は苦笑した。
「海さん、本当にそればかりですね」
「分からないものを、分かったとは言えないので」
湊は黙った。
それから小さな声で言った。
「俺も昔、似たような噂を聞いたことがあります」
「自分の?」
「はい」
「本当だった?」
「一部は」
海は湊を見る。
「一部?」
「仕事を辞めたのは本当。でも、辞めさせられたって話になって、そのあと、金を持ち逃げしたって話になった」
「実際は?」
「借金を返すために、自分から辞めた」
海は何も言わなかった。
「嘘じゃない部分があるから、否定するのも難しかった」
湊は笑った。
「全部嘘なら、簡単なんですけどね」
その言葉を聞いて、海は少し考えた。
翌朝。
名前のない男が、いつもより早く来た。
受付の女性が声をかける。
「昨日の件ですが」
「はい」
「もし働きにくいようなら、配置を変えることもできます」
男は少し驚いた。
「俺がですか?」
「はい」
「噂をした人たちを変えるんじゃなくて?」
女性は少し考えた。
「それも必要なら考えます。ただ、あなたがここにいたくないという意味ではないですよね」
「はい」
男はすぐに答えた。
「働きたいです」
「分かりました」
「だったら、ここにいます」
女性はうなずいた。
「では、今まで通りで」
男は作業場へ向かった。
途中、誰かが小さな声で言った。
「番号の人」
男は振り返らなかった。
別の人が言った。
「おい、そこの人」
今度は振り返った。
その違いに、海は気づいた。
呼び方が変わっても、人との距離まで同じになるわけではない。
昼休み。
男は海の隣に座った。
「噂、消えないですね」
「すぐには」
「俺が何をした人なのか、誰も知らないのに」
「はい」
男は弁当を開いた。
「でも、昨日より今日は少し楽です」
「どうして?」
「誰かが信じたからじゃない」
男は少し笑った。
「信じなくても、仕事をさせてくれたから」
海は黙って聞いていた。
噂が消えることと、人がそこで生きられることは、同じではなかった。
その違いを、海はその日初めてはっきりと感じた。




