第286章 名前を知ったあと
朝の作業が始まる前に、受付の女性が海を呼んだ。
「海さん、少しお願いがあります」
「はい」
「昨日の人のことです」
海は女性を見る。
「名前を書かないまま働いていますが、物資の受け渡しでは確認が必要になりました」
「本人には伝えましたか?」
「まだです」
「じゃあ、本人に聞いてから決めたほうがいいと思います」
女性はうなずいた。
「そうですね」
二人で作業場へ向かった。
名前のない男は、いつもの場所で箱を整理していた。
「少し話してもいいですか」
女性が声をかける。
男は振り返った。
「はい」
「物資の受け渡しで、本人確認が必要な場面が増えました」
男の表情が変わった。
「名前を書かないといけない?」
「必ずではありません。ただ、本人だと確認できる方法が必要です」
男は黙った。
海は少し離れたところに立っていた。
女性が続ける。
「名前以外の方法も考えられます。毎回同じ担当者が確認する方法や、本人だけが分かる番号を使う方法もあります」
男は考え込んだ。
「番号ならいいです」
「分かりました」
「名前は書きたくない」
「分かりました」
女性は紙を出した。
「では、番号を一つ決めましょう」
男は紙を見た。
しばらく考えてから、一つの数字を選んだ。
「これで」
女性が記録する。
「この番号は、必要な人だけが確認できるようにします」
「分かりました」
話が終わると、男は作業へ戻った。
海も自分の仕事に戻った。
昼休み。
海が食事をしていると、男が向かいに座った。
「番号にしました」
「聞きました」
「名前を知られているのに、名前を使わないって変な感じですね」
「そうですか?」
「あなたはどうですか?」
海は少し考えた。
「自分の名前を知っている人がいても、その人が勝手に使わなければ、少し違うと思います」
男は黙って聞いていた。
「名前は情報だから」
「情報?」
「知っていることと、使っていいことは同じじゃない」
男は箸を止めた。
「確かに」
そのとき、隣の席から声がした。
「でも、名前を知ってるなら、呼んでもいいんじゃない?」
別の作業員だった。
男は少し困った顔をした。
海は答えなかった。
受付の女性が向こうから声をかける。
「呼ばれたくないと言っているなら、呼ばないほうがいいと思います」
「でも、知らない名前で呼ぶのも変じゃない?」
「だから、今は番号です」
作業員は少し考えた。
「面倒だな」
「そうですね」
女性は笑った。
「人によって違うので」
午後。
作業場で一つの問題が起きた。
荷物の受け取りに来た男性が、名前のない男を見て言った。
「お前、昔――」
男の動きが止まった。
「……知りません」
「いや、顔が同じだ」
周囲の空気が変わった。
受付の女性がすぐに近づいた。
「ここでは、現在の登録方法で確認します」
男性は不満そうだった。
「でも、こいつは――」
「今の名前や過去について、本人が話していないことをこちらから確認することはできません」
「知ってるんだろ?」
「必要な情報しか扱いません」
男性は黙った。
しばらくして、荷物を受け取って帰っていった。
男はその場から動かなかった。
海が近づいた。
「大丈夫ですか」
「はい」
少し間を置いて、男が言った。
「名前を知られることより、勝手に話されることのほうが怖いんですね」
海はうなずいた。
「たぶん」
男は苦笑した。
「だったら、名前を隠すだけじゃ足りない」
「そうかもしれません」
「知っている人がいても、話さないでいてくれることが必要なんだ」
海は返事をしなかった。
夕方。
男は帰る前に受付へ寄った。
「今日のこと、記録に残しますか?」
女性は答えた。
「必要な事実だけ残します」
「名前は?」
「書きません」
「分かりました」
男は少し考えてから言った。
「でも、今日ここにいたことは残しておいてください」
女性が顔を上げた。
「それは、いいんですか?」
「はい」
「どうして?」
男は少し笑った。
「名前を残したくないだけで、今日まで生きてきたことまで消したいわけじゃないので」
女性はうなずいた。
「分かりました」
男は倉庫を出ていった。
海はその背中を見ながら、作業場の明かりを消した。
名前を知ったあとにも、選ばなければならないことがある。
呼ぶのか。
呼ばないのか。
書くのか。
書かないのか。
伝えるのか。
伝えないのか。
同じ「知っている」ということでも、その先の扱い方は一つではなかった。




