第285章 名前を呼ばない人
数日後、倉庫の入口に一枚の紙が貼られていた。
新しい作業員の一覧だった。
名前と担当場所が書かれている。
海は紙の前を通り過ぎようとして、足を止めた。
湊の名前もあった。
その隣には、別の名前がいくつか並んでいる。
その中に、一人だけ名前の欄が空白になっている人がいた。
「この人、誰ですか?」
海が聞いた。
受付の女性が紙を見た。
「ああ、その人は昨日から来ている人です」
「名前がないんですか?」
「本人が書かないでほしいと言ったので」
「仕事は?」
「できます。時間も守ります」
「じゃあ、どうやって呼ぶんですか?」
女性は少し笑った。
「呼びません」
海は首を傾げた。
「呼ばない?」
「必要なときは手を上げてもらいます」
「それで分かるんですか?」
「今のところは」
海は紙を見た。
名前のない人。
それでも、仕事には来ている。
その日の午後。
海とその人は同じ場所で作業することになった。
男は黙って箱を運んでいた。
海も何も聞かなかった。
しばらくすると、男の持っていた箱が崩れた。
「大丈夫ですか」
「はい」
二人で箱を拾った。
海が一つ持ち上げる。
男も別の箱を持つ。
「ありがとうございます」
「いえ」
それだけだった。
作業が終わる頃、男が海に声をかけた。
「海さん」
「はい」
「あなたは名前を聞かないんですね」
「聞かれたくない人もいるので」
男は少し笑った。
「でも、仕事では必要じゃないですか?」
「仕事に必要なことだけ分かればいいと思います」
「名前も?」
「場合によると思います」
男は少し考えた。
「なるほど」
帰り際、受付の女性が男に声をかけた。
「明日も来ますか?」
男はうなずいた。
「来ます」
「では、いつもの場所でお願いします」
男はそれだけで帰った。
海はその様子を見ていた。
翌日。
朝から倉庫が騒がしかった。
一人の作業員が、昨日の男について聞いてきた。
「名前のない人って、誰?」
「知りません」
「どこから来た?」
「分かりません」
「危ない人じゃないの?」
受付の女性は答えた。
「仕事に問題はありません」
「でも、名前も住所も分からないんだろ?」
「必要な情報については確認しています」
「それだけ?」
「それ以上を本人が話す必要があるとは限りません」
男は納得していない顔をした。
「そんなのでいいのか?」
女性は少し考えた。
「よくない部分があれば、その都度考えます」
「最初から全部調べればいいだろ」
「全部知ったから安全になるとも限りません」
男は黙った。
その会話を、少し離れたところで海が聞いていた。
午後。
名前のない男が、海に近づいた。
「昨日の話ですが」
「はい」
「俺は、昔の名前を知っている人がここにいる」
海は黙った。
「だから、名前を書きたくない」
「分かりました」
「でも、働かなければならない」
「それも分かります」
「変な話ですよね」
海は首を横に振った。
「変ではないと思います」
男は少し笑った。
「あなたもそうなんですか?」
「似たようなところはあります」
「じゃあ、聞かないんですね」
「はい」
男は少し安心したように息を吐いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
その日の終わり。
男は初めて、自分から海に名前を教えた。
小さな声だった。
海は聞き返さなかった。
「分かりました」
男は驚いた。
「覚えた?」
「はい」
「記録には?」
「書きません」
「どうして?」
「あなたが書かないでほしいと言ったからです」
男はしばらく黙った。
「……そうですか」
そして、初めて自分から笑った。
翌朝。
作業表の空白は、そのままだった。
名前のない男は、いつも通りそこへ来た。
誰も名前を呼ばなかった。
けれど、彼が来たことを知っている人は増えていた。
名前がなくても、人は少しずつ人間関係の中に入っていく。
名前を知らないままでも、仕事を任せることはできる。
名前を知っていても、それを使わないことはできる。
海は作業表を見てから、何も言わず仕事を始めた。




