第284章 名前を知っている人
翌週、倉庫に新しい作業員が来た。
若い男だった。
年齢は海より少し下に見える。
受付で簡単な説明を受けたあと、作業場へ案内された。
「今日からここで働きます」
男が言った。
担当の女性が作業表を見る。
「名前は?」
男は答えた。
「湊です」
「登録も湊?」
「はい」
女性は記録を確認した。
「分かりました。海さんと一緒の班です」
男は海を見た。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人は握手をしなかった。
ただ、軽く頭を下げた。
午前中は、箱の仕分けだった。
湊は手際がよかった。
ただ、作業の順番を覚えるのが少し遅かった。
海が一度説明すると、
「分かりました」
と言って、その通りに動いた。
昼前、湊が海に聞いた。
「ここ、長いんですか?」
「それほどでもない」
「海さんって、前から海さん?」
海の手が止まった。
湊はすぐに言った。
「すみません。変なこと聞きました」
「大丈夫」
海は少し考えた。
「今は海です」
「そうですか」
湊はそれ以上聞かなかった。
昼休み。
食堂で湊が一人で食べていると、別の作業員が近づいてきた。
「お前、湊っていうのか?」
「はい」
「昔、別の名前じゃなかった?」
湊の顔が固まった。
「……人違いです」
「そうか?」
男は少し笑った。
「どこかで見た気がしたんだけどな」
「人違いだと思います」
「ならいい」
男は去っていった。
湊は食事を続けた。
しかし、箸を持つ手が少し震えていた。
午後。
作業が始まってから、湊が一度だけ海に近づいた。
「海さん」
「はい」
「少し聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「さっきの人、俺のことを昔の名前で呼びそうになった」
海は黙って聞いた。
「ここにいることが知られたくない」
「分かった」
「もし誰かに聞かれたら……」
湊は言葉を止めた。
海は待った。
「俺が湊じゃないと言ってもいいですか」
「それは、あなたが決めればいいと思う」
「でも、仕事の記録には湊と書いてあります」
「必要な記録なら、そこは変えないほうがいい」
湊はうなずいた。
「じゃあ、仕事では湊で」
「うん」
「それ以外では、何も言わない」
「それでもいいと思う」
湊は少し安心したようだった。
その日の終業前。
朝の男が、再び湊のところへ来た。
「悪かったな」
「何がですか?」
「昼のこと」
「……はい」
「昔の知り合いに似ていたから、聞いただけだ」
湊は何も言わなかった。
男は続けた。
「俺も昔、名前を変えたことがある」
湊が顔を上げた。
「え?」
「仕事を辞めたときにな」
男は笑った。
「別に大した話じゃない。昔の職場で呼ばれていた名前が嫌になっただけだ」
「今の名前は?」
「同じだよ」
「じゃあ、変えた意味は?」
男は少し考えた。
「一時的に、変えたかったんだろうな」
それだけ言って、男は帰っていった。
湊はその背中を見ていた。
海も少し離れたところから見ていた。
夜。
倉庫の戸締まりをしていると、湊が海に言った。
「名前って、不思議ですね」
「そうですね」
「隠したいときもあるのに、誰かに呼んでほしいときもある」
海は鍵を閉めた。
「両方あるんじゃないですか」
湊は笑った。
「そうかもしれません」
二人は倉庫を出た。
外は暗かった。
湊はしばらく歩いてから、振り返った。
「海さん」
「はい」
「明日も、湊で来ます」
「分かりました」
湊はそれだけ言って歩いていった。
海も反対方向へ歩き出した。
名前を隠すこと。
名前を使うこと。
名前を変えること。
そのどれもが、必ずしも過去を否定するためではなかった。
時には、今日を生きるために必要な選択でもあった。




