第283章 古い鍵
海は、三日間その鍵を使わなかった。
仕事へ行くときも、帰るときも、ポケットの奥に入れたままだった。
鍵があることを忘れることはなかった。
けれど、取り出すこともしなかった。
四日目の朝。
倉庫へ向かう途中、海は古い建物の前で足を止めた。
建物は半分ほど壊れていた。
窓は板で塞がれ、入口には使われていない看板が残っている。
その横に、小さな扉があった。
錆びた鍵穴。
海はポケットの中の鍵を思い出した。
しばらく扉を見ていた。
それから、鍵を取り出した。
差し込んでみる。
入った。
海は少し驚いた。
ゆっくり回す。
鍵は動いた。
扉が開いた。
中には何もなかった。
古い棚。
壊れた机。
壁に残った汚れ。
床には紙が何枚か散らばっていた。
海は中へ入った。
そこが何の場所だったのか、すぐには分からなかった。
棚の奥から、古い帳簿が出てきた。
表紙には、以前使われていた施設の名前が書かれている。
海はページをめくった。
名前が並んでいた。
日付。
仕事。
物資。
退去。
その中に、自分の名前を見つけた。
昔の名前だった。
海の手が止まった。
しばらく、その文字を見ていた。
懐かしいというより、不思議だった。
そこに書かれている人物が、自分なのか。
自分だったはずなのか。
今の自分と同じ人間なのか。
簡単には答えられなかった。
さらにページをめくる。
自分の名前の横には、いくつかの記録があった。
「本人確認済み」
「移動」
「連絡不能」
最後の記録だけ、日付がかなり古かった。
海は帳簿を閉じた。
そのとき、外から足音が聞こえた。
誰かが近づいてくる。
海は振り返った。
一人の老人が入口に立っていた。
「入ったのか」
「はい」
老人は帳簿を見る。
「それ、見つけたんだな」
「ここは何の場所ですか?」
「昔の事務所だ」
「誰の?」
「いろんな人の」
老人は中へ入った。
「昔は、この辺りにもっと人がいた」
海は黙って聞いていた。
「この建物にも、たくさん人が出入りしていた。働いていた人もいたし、ここを通って別の場所へ行った人もいた」
「今は?」
「今はいない」
老人は簡単に答えた。
海は帳簿を見た。
「この記録は正しいですか?」
老人は笑った。
「さあな」
「分からない?」
「昔の記録なんて、だいたいそんなものだ」
「でも、名前があります」
「名前があるから、本当だとは限らん」
海は少し黙った。
「間違っているとも限らない」
老人はうなずいた。
「そうだ」
老人は棚から別の箱を取り出した。
「こっちにも記録がある」
中には紙が何枚も入っていた。
海は一枚を見る。
同じ人物について、別の日付で違う記録が残っている。
名前も少し違う。
住所も違う。
「どうして?」
「書いた人が違うからだろう」
「どれが本当ですか?」
老人は答えなかった。
海は二つの記録を並べた。
どちらも嘘とは言えない。
どちらも正しいとも言えない。
そのとき、老人が言った。
「昔、この町では名前を変える人が珍しくなかった」
海は顔を上げた。
「どうして?」
「逃げてきた人もいた。家族と縁を切った人もいた。仕事を変えて、昔の名前を使わなくなった人もいた」
「じゃあ、記録はどうするんですか?」
「分からん」
老人は笑った。
「だから、記録が増えた」
海も少し笑った。
帰る前に、海は自分の名前が書かれたページをもう一度見た。
昔の名前。
今の名前。
どちらも自分の人生にある。
どちらか一つを選んだからといって、もう一つが消えるわけではない。
海は帳簿を元の場所へ戻した。
「持って帰らないのか?」
老人が聞いた。
「はい」
「どうして?」
海は少し考えた。
「ここに置いておいたほうがいい気がします」
「そうか」
海は扉の前で振り返った。
「この鍵は?」
老人が見た。
「それは、昔の鍵だろう」
「使えました」
「まだ使えるなら、使えばいい」
海は鍵をポケットにしまった。
扉を閉める。
鍵をかける。
そして倉庫へ向かった。
その日の午後。
少年が海に聞いた。
「今日はどこに行ってたんですか?」
「古い建物」
「何かありました?」
海は少し考えた。
「昔の名前がありました」
少年は不思議そうな顔をした。
「今の名前は?」
「海」
「じゃあ、昔の名前はいらない?」
海は笑った。
「分からない」
少年も笑った。
「じゃあ、今は海さんですね」
「うん」
その言葉だけで十分だった。




