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嘘の向こう側  作者: 亀


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第282章 会わない人

翌朝、海はいつもより早く倉庫に来ていた。


入口の前で少し立ち止まり、それから中へ入った。


「おはようございます」


「おはよう」


昨日までより、少しだけ自然に声を出せた。


作業表には、今日も「海」と書かれていた。


海はその文字を見た。


それから何も言わず、紙を持って作業場へ向かった。


午前中は、荷物の整理だった。


新しく届いた物資を種類ごとに分け、数量を確認する。


途中、一人の女性が箱を持ってきた。


「これ、どこですか?」


「医療用品なら、向こうです」


海が指を示した。


女性は箱を置いた。


「ありがとう、海さん」


海は少しだけ顔を上げた。


その呼び方に、まだ慣れていなかった。


「どういたしまして」


女性は戻っていった。


その様子を見ていた少年が笑った。


「もう普通ですね」


「何が?」


「海さんって呼ばれるの」


「……そうかな」


「昨日までは、ちょっと変な感じでした」


「今も少し変です」


二人は笑った。


昼休み。


食堂の隅で、海は一人で食事をしていた。


そこへ、昨日の女性がやってきた。


「ここ、いい?」


海は隣の椅子を見た。


「どうぞ」


女性は座った。


しばらく二人とも食べていた。


女性のほうから話した。


「昨日の紙、読んだ?」


海の手が止まった。


「あなたが?」


女性はうなずいた。


「書いたのは私」


海は黙っていた。


「会いに行くつもりはない」


「分かった」


「でも、逃げていると思っているわけでもない」


海は女性を見た。


「どういう意味?」


「昔のことを全部捨てる必要はないと思ってる。でも、昔の関係に戻る必要もない」


女性は箸を置いた。


「だから、私はあなたの名前を呼ばないことにした」


海は少し驚いた。


「海って呼んでいいよ」


「それは、今のあなたが決めた名前だから」


女性は笑った。


「私が勝手に使うものじゃないと思う」


海はしばらく黙った。


「じゃあ、何て呼ぶの?」


「呼ばない」


「それは困るな」


二人は少し笑った。


「仕事では海さん」


「それならいい」


「外では、必要になったら考える」


「分かった」


昼休みが終わる時間になった。


女性は立ち上がった。


「じゃあ、また仕事で」


「うん」


それだけだった。


過去を詳しく話すこともなかった。


謝ることも、責めることもなかった。


ただ、会わないという選択だけが残った。


午後。


海はいつも通り仕事をした。


しかし、一度だけ手が止まった。


棚の整理をしていると、古い名札が一枚出てきた。


名前の部分が擦れている。


文字はほとんど読めなかった。


「これ、どうします?」


少年が聞いた。


海は名札を見た。


「古いものなら、別に置いておきましょう」


「捨てないんですか?」


「誰かのものかもしれないから」


少年は頷いた。


「じゃあ、保管します」


古い名札は箱の中に入れられた。


誰のものだったのかは分からない。


もう使われることもないかもしれない。


それでも、すぐに捨てる理由もなかった。


夕方。


仕事が終わると、海は一人で倉庫を出た。


入口のところで、昼間の女性が待っていた。


「海さん」


「どうしたの?」


「これだけ」


女性は小さな袋を渡した。


「昔、あなたが置いていったもの」


海は袋を受け取った。


中には、古い鍵が入っていた。


「まだ持ってたんだ」


「捨てられなかった」


海は鍵を見つめた。


「返してくれて、ありがとう」


「使う?」


「分からない」


「なら、持っていればいい」


海はうなずいた。


女性はそれ以上何も言わなかった。


二人はそこで別れた。


海は歩き出した。


鍵は、何かを開けるためのものだった。


けれど、今そこに扉があるとは限らない。


海はしばらく歩いてから、鍵をポケットの奥にしまった。


そして振り返らずに、そのまま帰っていった。

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