第281章 海という名前
「海さん」
朝の作業場で、少年が呼んだ。
男は振り返った。
「はい」
「今日はこちらです」
少年が作業表を渡す。
海は紙を見る。
「仕分けですか」
「はい。昨日と同じです」
「分かりました」
海は倉庫の奥へ向かった。
昨日までは、彼を呼ぶときに少し迷いがあった。
「未登録の人」
「昨日の人」
「名前を言わない人」
そんな呼び方しかなかった。
けれど今日は違った。
海。
その二文字だけで振り返ることができる。
午前中、海は黙々と作業をしていた。
箱を運び、数量を確認し、決められた場所に置く。
昼前、一つの箱が足りないことに気づいた。
「この箱、三つのはずですよね」
隣の男が言った。
「二つしかない」
海は作業表を確認した。
「ここに三つと書いてあります」
「じゃあ、誰かが持っていったんじゃないか?」
別の男が言った。
その言葉に、周囲が少し静かになった。
最近、人が増えている。
知らない顔も多い。
誰かが持っていった可能性はある。
だが、誰が持っていったのかは分からない。
「探します」
海が言った。
「探すって、どこを?」
「別の場所に移された可能性があります」
「誰かが盗った可能性は?」
「それも分かりません」
海は倉庫を見回した。
作業表を持って、昨日の搬入場所まで戻った。
しばらくして、別の棚の奥から箱が見つかった。
三つ目の箱だった。
「ありました」
少年が声を上げた。
周囲の空気が緩んだ。
「誰が移したんだ?」
誰かが聞いた。
海は箱を見た。
「分かりません」
「でも、誰かが移したんだろ」
「そうですね」
「だったら、記録に残したほうがいいんじゃないか?」
海は少し考えた。
「移動したことは書いていいと思います」
「誰がやったかは?」
「分からないなら、分からないと書けばいい」
男は黙った。
「名前まで書かなくてもいい?」
「名前が分からないなら、書けません」
少年が答えた。
その言葉に、海が少年を見る。
昨日まで受付にいた少年だった。
「それでいいと思います」
海は言った。
午後。
作業が終わる頃、倉庫の入口に一人の女性が立っていた。
海はその女性を見た。
女性も海を見た。
数秒間、二人とも動かなかった。
女性が先に目を逸らした。
「……知り合いですか?」
少年が小さな声で聞いた。
海は答えなかった。
女性はそのまま去っていった。
海も追わなかった。
しばらくして、少年が聞いた。
「さっきの人、昔の知り合いですか?」
「たぶん」
「話さなくていいんですか?」
「今は、話したくない」
少年はうなずいた。
それ以上は聞かなかった。
夕方。
海が一人で外に出ると、入口の壁に小さな紙が貼られていた。
そこには、短く書かれていた。
『海さんへ』
海は紙を剥がさなかった。
しばらく眺めていた。
誰が書いたのかは分からない。
何を伝えたいのかも分からない。
けれど、自分の名前で呼びかけられていることだけは分かった。
海は紙を取った。
そして、折りたたんでポケットに入れた。
その夜。
透が作業場の整理をしていると、海がやってきた。
「少し聞いてもいいですか」
「どうぞ」
海はポケットから紙を出した。
「これ、どうしたらいいと思いますか」
透は紙を見た。
「何と書いてあるんですか?」
「読んでません」
「読まないんですか?」
「怖いんです」
透は黙った。
海は紙を握った。
「名前を変えたら、昔の人に見つからないと思っていました」
「はい」
「でも、名前を変えても、昔の人間がいなくなるわけじゃない」
透は答えなかった。
「それなら、名前を隠す意味って何なんでしょう」
少し考えてから、透は言った。
「今の自分を守るため、かもしれません」
海は紙を見た。
「昔を消すためじゃなくて?」
「消えるとは限らないと思います」
海は紙を開いた。
短い文章だった。
『名前を変えたことは聞きました。今は、会いに行きません。元気なら、それでいいです。』
海は最後まで読んだ。
何度も読み返した。
そして紙を畳んだ。
「……会いに来ないそうです」
「そうですか」
「少し安心しました」
海は立ち上がった。
「今日は、これで帰ります」
「はい」
海は扉のところで振り返った。
「透さん」
「はい」
「この名前、しばらく使ってみます」
「海、ですか」
「はい」
「分かりました」
海は外へ出ていった。
透は閉まった扉を見た。
名前が変わったことで、過去が消えたわけではない。
けれど、過去との距離を自分で決められることはある。
それだけで、人が今日を生きるには十分なこともあった。




