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嘘の向こう側  作者: 亀


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第280章 知らない人の名前

午後の配給所は、いつもより混んでいた。


新しく来た人が増えている。


受付には長い列ができていた。


少年は、昨日と同じように名前を確認していた。


「次の人」


一人の男が前に出た。


「名前は?」


男は答えなかった。


「登録されていますか?」


男は首を横に振った。


「では、名前を教えてください」


「言えません」


少年は困った。


受付の女性を見る。


女性は少し考えてから言った。


「呼ばれたい名前はありますか?」


男はしばらく黙っていた。


「……ありません」


「では、仮の呼び方を決めますか?」


「それも嫌です」


少年は男の顔を見た。


その男は、周囲を何度も確認している。


誰かを探しているようにも見えた。


「食料は必要ですか?」


受付の女性が聞いた。


男はうなずいた。


「それなら、今日の分は渡せます」


「名前を書かなくても?」


「仮の番号をつけます」


男は少し嫌そうな顔をした。


「番号も嫌です」


女性は考えた。


「では、今日だけ『未登録』として記録します」


男は黙った。


「それならいいです」


少年が記録を書いた。


名前の欄には、


「未登録」


と書かれた。


男は食料を受け取ると、そのまま離れていった。


少年は後ろ姿を見ながら尋ねた。


「名前がない人って、どう呼ぶんですか?」


「呼ぶ必要があるときに考えます」


「でも、また来たら?」


「そのとき本人に聞きます」


「毎回?」


「毎回です」


少年は少し驚いた。


「面倒じゃないですか?」


「面倒ですよ」


女性は笑った。


「でも、本人が名前を決めるまで、こちらが勝手に決める必要もないでしょう」


その日の夕方。


少年が仕事を終えると、広場の隅で昼間の男を見かけた。


男は一人で座っていた。


少年は少し迷ったが、近づいた。


「食べましたか?」


男は少年を見る。


「はい」


「ここに住むんですか?」


「分かりません」


少年は隣に座った。


「名前、言いたくないんですか?」


「……そうです」


「どうして?」


男はしばらく黙っていた。


「名前を言うと、探されるから」


少年は何も言わなかった。


「誰に?」


「昔の人です」


「悪い人?」


男は少し考えた。


「分かりません」


「じゃあ、怖い人?」


「それも分かりません」


少年は男を見た。


「それでも、名前は言いたくない?」


「はい」


「分かりました」


それだけ言って、少年は立ち上がった。


男が聞いた。


「君は、どうして名前を聞いた?」


「仕事だからです」


「仕事?」


「受付の仕事」


男は少し笑った。


「そうか」


少年も笑った。


「でも、聞きたくない人には、聞かなくていいこともあるみたいです」


男はしばらく少年を見ていた。


「それは、いい仕事だね」


少年は返事をしなかった。


翌朝。


その男が再び配給所に来た。


少年は受付にいた。


「名前は?」


男は少し黙った。


昨日と同じ質問。


昨日と同じように、答えないつもりだった。


しかし今日は、


「……呼ぶなら、『海』でいい」


と言った。


少年は紙を見た。


「海?」


「はい」


「本当の名前ですか?」


男は首を横に振った。


「分かりません」


少年はそれ以上聞かなかった。


「じゃあ、『海』さんですね」


男は少し笑った。


「それでいいです」


少年は記録に書いた。


海。


それだけだった。


本当の名前なのか。


昔の名前なのか。


自分で選んだ名前なのか。


誰にも分からない。


けれど、その日から、


その男は「海」と呼ばれるようになった。


名前が何を意味するのかを、


本人以外の人間が決める必要はなかった。

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