第二十八章 持っているもの
駅前の喫茶店に着くと、女はすでに来ていた。
窓際の席に座り、テーブルの上に一枚の封筒を置いている。
透が向かいに座ると、彼女は封筒を指で押さえた。
「これ」
「何ですか?」
「弟の部屋にあった」
「昨日まで知らなかったんですか?」
「知ってた。でも、中身を見てなかった」
透は封筒を見た。
古い紙だった。
表には何も書かれていない。
「どうして今、見たんですか?」
「あなたが昨日言ったから」
「僕が?」
「知らないことを、全部すぐに調べる必要はないって」
透は黙った。
彼女は封筒を開けた。
中から、三枚の紙が出てきた。
一枚目は古い勤務表。
二枚目は住所の一覧。
三枚目は、手書きのメモだった。
透は勤務表を見る。
そこには弟の名前がある。
その横に、
N―07
と書かれていた。
「……いつのですか?」
「弟が会社を辞める少し前」
透は二枚目の住所一覧を確認した。
いくつかの住所に丸がついている。
そのうち一つは、昨日透が訪れた建物だった。
「ここに行ったんですね」
「たぶん」
「弟さんが?」
「そう」
透は三枚目の紙を手に取った。
そこには短い文章があった。
N―07は場所ではない。
人を置く場所でもない。
人がどこにいるかを決めるための番号だ。
その下には、さらに一行。
番号を消せば、そこにいた理由も消える。
透は何度も読み返した。
「これ、弟さんが書いたんですか?」
「分からない」
「筆跡は?」
「似てる。でも、本人だとは断言できない」
透は紙を置いた。
「誰かに見せましたか?」
「まだ」
「元同僚には?」
「見せてない」
二人の間に沈黙が落ちた。
やがて女が言った。
「あなたは?」
「何を?」
「今日、何を見つけたの?」
透は少し考えた。
ポケットの中の鍵。
N―07。
管理室。
古いファイル。
そして、そこで聞いた話。
全部を話すこともできる。
だが、まだ確かめていない。
「古い管理室を見つけました」
女が顔を上げた。
「管理室?」
「第七管理室」
「……そこに何があった?」
「N―07という番号が使われていました」
透はポケットから鍵を出した。
机の上に置く。
女は鍵を見つめた。
「これ、どこにあったの?」
「管理室」
「持ってきたの?」
「はい」
彼女は鍵に触れなかった。
「それ、返した方がいいかもしれない」
「どうして?」
「弟のメモに、似たようなことが書いてある」
彼女は三枚目の紙を裏返した。
裏側には、さらに小さな文字があった。
透はそれを読む。
鍵を持っている人間を、信用しないこと。
二人は同時に顔を上げた。
しばらく何も言わなかった。
「……誰のことだと思いますか?」
女が聞いた。
透は答えなかった。
白石かもしれない。
元同僚かもしれない。
管理室の男かもしれない。
あるいは、自分自身かもしれない。
「分かりません」
「私も」
女は紙を折った。
「でも、一つだけ変だと思う」
「何が?」
「弟は、どうしてこんなことを書いたの?」
透は鍵を見た。
「誰かに見つけてほしかったのかもしれません」
「じゃあ、どうして隠したの?」
「見つけてほしい相手と、見つけてほしくない相手がいたのかもしれません」
女は黙った。
その言葉を否定しなかった。
店の外を、人が次々と通り過ぎていく。
誰もこちらを見ていない。
それでも透は、少しだけ声を落とした。
「一つ確認したいことがあります」
「何?」
「弟さんは、最後に連絡してきた時、『探さなくていい』と言ったんですよね」
「うん」
「それなのに、こういうものを残した」
「そう」
「矛盾しているように見えます」
女は頷いた。
「私もそう思ってた」
「でも、違うかもしれません」
「どういうこと?」
「探してほしくないことと、忘れてほしくないことは、同時に存在するかもしれない」
女はしばらく黙っていた。
「……そうかもしれない」
彼女はそう言って、紙を封筒に戻した。
その時、店の入口が開いた。
二人は何気なくそちらを見る。
白石だった。
透は驚いた。
白石も透を見つけた。
一瞬、三人の視線が重なる。
白石は二人の席へ近づいてきた。
「ここにいたのか」
透は頷いた。
「はい」
白石は女を見る。
「初めまして」
女は軽く頭を下げた。
「こんにちは」
白石は透の前の鍵に目を止めた。
ほんの一瞬だった。
だが、透には分かった。
白石はその鍵を知っている。
「それを、どこで?」
白石が聞いた。
透はすぐには答えなかった。
以前なら、何も考えず説明していた。
今日は違う。
「どうして知っているんですか?」
白石は黙った。
女も白石を見る。
店の音だけが聞こえる。
やがて白石が言った。
「昔、同じものを見たことがある」
「どこで?」
「第七管理室だ」
透の手が止まった。
「白石さんも、あそこへ行ったことがある?」
「ある」
「いつ?」
「かなり前だ」
「何をしていたんですか?」
白石は答えなかった。
代わりに鍵を見た。
「その鍵は、持っているだけでは何も分からない」
「どういう意味ですか?」
「鍵が開けるものを知っている人間が、もういないからだ」
透は白石を見つめた。
それが本当なのか。
隠しているのか。
透には判断できなかった。
ただ一つだけ分かった。
今まで自分が知らなかった場所に、
白石もいた。
そして白石も、
すべてを知っているわけではない。
透は鍵を手に取った。
「この鍵について、まだ聞きたいことがあります」
白石は頷いた。
「私も、話せることは話す」
「全部ですか?」
白石は少しだけ笑った。
「全部は無理だ」
その答えを聞いて、透は不思議と嫌ではなかった。
全部を話さないことと、
嘘をつくことは、
やはり同じではない。
ただ、
何を話さないのかを決める権利は、
話す側にも、
聞く側にもある。
透は鍵をポケットへ戻した。
「では、少しずつ聞きます」
白石は何も言わなかった。
女も黙っていた。
三人の間に、
まだ誰も持っていない情報が残っている。
それでも今は、
誰か一人の説明だけで決める必要はなかった。




