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嘘の向こう側  作者: 亀


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第278章 誰のための名前

翌日の朝、教室の黒板に新しい紙が貼られていた。


「呼ばれたい名前を書いてください」


その下には、いくつかの名前が並んでいた。


昨日来ていた子どもたちのものだった。


本当の名前を書く子もいる。


家族から呼ばれている名前を書く子もいる。


短いあだ名を書く子もいた。


妹は、自分の名前をそのまま書いた。


兄は少し離れたところから、それを見ていた。


「お兄ちゃんも書けば?」


妹が言った。


「僕はいい」


「なんで?」


「もう名前は分かってるから」


妹は首をかしげた。


「みんな分かってるよ」


「そうだな」


兄は笑った。


けれど、紙には何も書かなかった。


教室の女性は、それに気づいていた。


それでも、何も言わなかった。


午前の授業が始まる。


今日は簡単な計算だった。


「三つの箱に、それぞれ五個ずつ入っています。全部でいくつでしょう」


子どもたちが紙に答えを書く。


妹はすぐに答えを書いた。


兄は少し考えてから、十五と書いた。


「正解」


女性が言った。


兄は少しだけ嬉しそうだった。


授業が終わると、子どもたちは外へ出て遊び始めた。


その中の一人が、兄のところへ来た。


「ねえ」


「何?」


「前に番号で呼ばれてたって、本当?」


兄は少し黙った。


「うん」


「何番?」


「覚えてない」


「嘘だ」


「本当に覚えてない」


子どもは不満そうな顔をした。


「番号って、名前より悪いの?」


兄は答えに困った。


「分からない」


「じゃあ、どっちがいい?」


「名前」


「どうして?」


兄は少し考えた。


「自分で選べるから」


子どもは首をかしげた。


「番号も選べるじゃん」


「そうかもしれない」


「じゃあ、今の名前も自分で選んだの?」


「……違う」


「じゃあ、誰が決めたの?」


兄は答えなかった。


そこへ妹が走ってきた。


「お兄ちゃん、一緒に行こう」


「どこへ?」


「外」


兄は子どもに手を振って、妹についていった。


教室の女性は、その様子を見ていた。


午後、兄が倉庫の仕事を終える頃、責任者が彼を呼び止めた。


「明日から、少し仕事を変えてみませんか?」


「仕事を?」


「はい」


「何をするんですか?」


「配給所の手伝いです」


兄は少し驚いた。


「僕、計算はまだ遅いです」


「昨日の倉庫の記録を見ました」


責任者は紙を見せた。


そこには、兄が書いた数字が並んでいた。


「間違いは二回ありました」


「はい」


「でも、その後の確認は早かった」


「……それだけですか?」


「それだけです」


責任者は笑った。


「仕事を決めるとき、全部できるかどうかを見る必要はありません」


兄は少し考えた。


「やってみます」


「では、明日から」


その日の夕方、配給所では別の問題が起きていた。


一人の女性が、受付の前で困った顔をしている。


「この名前の人、昨日ここに来ましたか?」


受付の女性が記録を見る。


「来ています」


「今日も来ると言っていたんです」


「まだ来ていません」


「そうですか……」


女性は何度も入口を見る。


「どうしました?」


「昨日、仕事を探していると言っていたんです」


「知り合いですか?」


「昨日初めて会いました」


受付の女性は少し驚いた。


「初めて?」


「はい」


「それなのに探しているんですか?」


女性は笑った。


「名前しか知らないんです」


「名前だけ?」


「名前と、昨日ここで食事をしたこと」


二人はしばらく入口を見た。


やがて、女性は言った。


「名前が分かれば、探せると思ったんです」


受付の女性は記録を閉じた。


「名前だけでは、難しいかもしれません」


「そうですね」


女性は少し寂しそうに笑った。


「でも、名前がなかったら、もっと難しかったでしょうね」


その言葉を、透は少し離れた場所で聞いていた。


夜になって、兄が妹を迎えに来た。


妹は今日習った字を紙に書いて見せた。


「見て」


「上手だな」


「先生が、名前は自分で書いていいって」


兄は紙を見る。


そこには妹の名前が、少し歪んだ字で書かれていた。


「お兄ちゃんも書いて」


「また?」


「うん」


兄は少し笑った。


教室の女性が新しい紙を渡した。


「書きたくなったらでいいですよ」


兄は紙を受け取った。


しばらく何も書かなかった。


そして、ゆっくりと自分の名前を書いた。


女性は見ても、何も言わなかった。


兄は紙を机の上に置いた。


「これでいい?」


「はい」


「誰かに見られても?」


「嫌なら、しまっておいてもいいですよ」


兄は紙を折った。


「じゃあ、持って帰ります」


妹が笑った。


二人は並んで帰っていった。


その夜、兄は部屋の明かりの下で、昼間に書いた紙を広げた。


名前は、昔から自分についていた。


けれど、その名前を誰に見せるのか。


誰に呼ばせるのか。


それを決めることは、今までほとんどなかった。


兄は紙を折り、妹の人形の横に置いた。


明日からは、配給所でその名前を呼ばれることになる。


それが少しだけ、怖かった。


そして、少しだけ嬉しかった。

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