第277章 知らない名前
少年と妹が来てから、一週間が過ぎた。
二人は、まだ同じ部屋にいた。
少年は倉庫で働き、妹は昼間になると近くの子どもたちと過ごしていた。
診療所にも、ときどき顔を出した。
町の人たちも、少しずつ二人の存在に慣れてきた。
ある日の午後、少年は倉庫から戻る途中、広場の前で足を止めた。
そこには、子どもたちが集まっていた。
簡単な勉強を教える場所だった。
壁には古い黒板が掛けられている。
「ここ、入っていいの?」
少年が聞くと、机を並べていた女性が顔を上げた。
「妹さんも?」
「はい」
「もちろん」
妹はすぐに中へ入った。
少年は入口に残った。
「僕は仕事があるので」
「夕方までなら、ここで預かれますよ」
少年は少し迷った。
「お金は?」
「いりません」
「本当に?」
「子どもが一人増えたくらいで、何かが変わるほどじゃないから」
少年は妹を見た。
妹はすでに他の子どもと話している。
「じゃあ、お願いします」
少年は倉庫へ戻った。
その日の授業では、簡単な読み書きが行われていた。
先生役の女性が子どもたちに紙を配る。
「自分の名前を書いてください」
子どもたちは次々に書き始めた。
妹も紙に名前を書いた。
ところが、隣の少年が手を止めた。
「先生」
「どうしました?」
「僕、名前を書きたくない」
女性は驚かなかった。
「分かりました」
「書かなくてもいい?」
「今日はいいですよ」
「どうして?」
別の子どもが尋ねた。
女性は少し考えた。
「名前を書くことが必要なときもあるけど、今は勉強することのほうが大事だから」
少年は紙を裏返した。
しばらくして、別の子が言った。
「でも、名前がないと誰か分からないよ」
「そうですね」
女性は笑った。
「だから、呼ぶときは本人が嫌じゃない呼び方を使いましょう」
「じゃあ、どう呼ぶの?」
少年は少し考えた。
「前は、番号で呼ばれてた」
「番号?」
「名前を言うと、記録に残るから」
教室が静かになった。
女性は何も聞かなかった。
ただ、
「ここでは、呼ばれたい名前があれば、それで呼びます」
と言った。
少年はしばらく考えた。
「……名前でいい」
「分かりました」
授業が終わったあと、少年は女性に尋ねた。
「どうして聞かなかったんですか?」
「何を?」
「前にいた場所のこと」
女性は少し笑った。
「話したくなったら、あなたから話すと思ったから」
「でも、知ったほうがいいんじゃないですか?」
「必要になれば聞きます」
少年は少し考えた。
「知らないほうがいいこともありますか?」
「あります」
「どんなこと?」
女性は黒板を拭きながら答えた。
「知ったことで、その人を見る目が変わってしまうことがあります」
「悪いことをした人だったら?」
「それでも、その人が今ここにいる理由とは別かもしれません」
少年は黙った。
その日の夕方、妹が兄のところへ走ってきた。
「お兄ちゃん!」
「どうした?」
「今日、名前で呼ばれたよ」
「そうか」
「うれしかった」
少年は妹の頭を撫でた。
「よかったな」
二人は並んで帰った。
その後ろから、教室の女性が二人を見ていた。
彼女は、少年たちの過去をほとんど知らない。
けれど、それで困ることもなかった。
知らないからこそ、今ここにいる二人を、
過去の誰かとしてではなく、
今日ここにいる二人として見ることができた。




