第273章 知っている人
翌日の朝、診療所に一人の男が来た。
四十歳くらいだった。
入口に入るなり、受付の女性に尋ねた。
「昨日、子どもが来ませんでしたか?」
女性の手が止まった。
「どの子ですか?」
「妹を連れた男の子です」
「どうして知っているんですか?」
男は少し黙った。
「昨日、町で見ました」
受付の女性は男を見た。
「知り合いですか?」
「……知っています」
「名前は?」
男は答えなかった。
「どうして探しているんですか?」
「妹のほうが病気だと聞いたので」
女性は少し警戒した。
「誰から聞いたんですか?」
男は困ったように笑った。
「それは言えません」
受付の女性は、昨日の記録を思い出した。
名前は妹だけ。
兄の名前はない。
住所もない。
誰が見ても、確認しにくい記録だった。
「その子たちに、何の用ですか?」
男は答えなかった。
「迎えに来たんですか?」
「……そうです」
「本人たちは、あなたのことを知っていますか?」
「知っています」
「それを確認できますか?」
男は黙った。
そのとき、診察室の奥から少年が出てきた。
男を見た瞬間、足を止めた。
「……おじさん」
男の表情が変わった。
「やっぱり、ここにいたか」
少年は少し後ろへ下がった。
「妹は?」
「寝ています」
「そうか」
男は安心したように息を吐いた。
受付の女性が尋ねる。
「この子たちを知っているんですね」
「はい」
「どういう関係ですか?」
男はしばらく考えた。
「昔、一緒に暮らしていました」
少年が小さく言った。
「今は違います」
男は少年を見る。
「そうだな」
「僕たち、戻りません」
男はすぐには答えなかった。
「分かった」
受付の女性は驚いた。
「それでいいんですか?」
男は苦笑した。
「無理に連れて帰っても、また逃げるでしょう」
「では、どうして来たんですか?」
「心配だったからです」
少年が男を見る。
「昨日、誰かに言った?」
「言ってない」
「じゃあ、どうして分かったの?」
男は答えなかった。
少年は黙った。
その沈黙を見て、受付の女性は何かを察したようだった。
「あなたは、誰かから聞いたんですね」
男はうなずいた。
「はい」
「誰から?」
「言えません」
女性は少し困った顔をした。
少年は何も言わなかった。
やがて男が言った。
「この子たちは、以前いた場所から逃げてきました」
「どうして?」
「そこでは、妹が病気でも休ませてもらえなかった」
少年が顔を伏せた。
「だから、二人で出てきたんです」
受付の女性は黙っていた。
男は続ける。
「私は、あの場所の管理をしていました」
少年が顔を上げた。
「おじさんは、僕たちを探しに来たんじゃない」
「違う」
「じゃあ?」
「謝りに来た」
少年は何も言わなかった。
男は続けた。
「昨日、君たちがいなくなったことを知った」
「……うん」
「最初は、戻ってこいと思った」
「うん」
「でも、一晩考えた」
男は診療所の奥を見る。
「戻ってこいと言う前に、自分たちが何をしていたのか考えないといけないと思った」
少年は黙っていた。
男はポケットから小さな紙を出した。
「これを置いていく」
少年が受け取った。
紙には、短い文章だけが書かれていた。
「必要になったら、呼んでください」
名前と、現在いる場所だけが書かれている。
少年は紙を見た。
「戻ってこなくてもいいの?」
男は少し考えた。
「……そう言ったほうがいいのかもしれない」
「じゃあ、言って」
男は少年を見た。
「戻ってこなくてもいい」
少年は紙を握った。
男はそれ以上何も言わず、診療所を出ていった。
受付の女性が少年に尋ねた。
「知っている人だったんですね」
「はい」
「怖かった?」
少年は少し考えた。
「前は怖かったです」
「今は?」
少年は入口を見た。
「まだ分かりません」
女性はそれ以上聞かなかった。
その日の夕方、少年は紙を何度も開いては閉じていた。
誰かを信じるには、過去に何をされたかだけでは足りない。
これから何をするのかも、見なければ分からない。
だから少年は、まだ決めなかった。




