第272章 聞かなかったこと
診療所の午後は、午前より静かだった。
患者の数も少なく、受付の女性は薬品の箱を一つずつ確認していた。
透は入口の近くに座っていた。
そこへ、一人の少年が入ってきた。
十代半ばくらいだった。
「先生、いますか?」
「いますよ。どうしました?」
少年は周囲を見回した。
「……妹を診てもらいたいです」
「妹さんは?」
「外にいます」
受付の女性は立ち上がった。
「連れてきてください」
少年は入口まで戻った。
しかし、すぐには扉を開けなかった。
「どうしました?」
「……妹は、登録してません」
女性は少し考えた。
「名前は?」
少年は妹の名前を言った。
「何歳?」
「八歳です」
「どこに住んでいますか?」
少年は答えなかった。
「言えません」
女性はそれ以上聞かなかった。
「症状を教えてください」
「熱があります。昨日から」
「どのくらい?」
「分かりません」
「食べられていますか?」
「少しだけ」
女性は少年の顔を見る。
「連れてきてください」
少年はようやく外へ出た。
しばらくすると、小さな女の子を抱えて戻ってきた。
診察室に入ると、医師が女の子の額に手を当てた。
「熱がありますね」
少年は黙っていた。
医師は体温を測り、いくつか質問した。
「いつから食べていない?」
少年が答える。
「昨日の朝から」
「水は?」
「飲んでます」
「薬は?」
「ありません」
医師は女の子の様子を見ながら、必要な薬を準備した。
「今日はここで休ませましょう」
少年は驚いた。
「いいんですか?」
「家に帰って悪化するよりいいでしょう」
少年はうなずいた。
診察が終わったあと、受付の女性が聞いた。
「この子のこと、誰かに知らせる必要はありますか?」
少年の顔が強張った。
「……知らせないでください」
「どうして?」
「連れていかれるかもしれないから」
女性は黙った。
「誰に?」
少年は答えなかった。
医師が奥から出てきた。
「この子は、しばらくここに置いておきましょう」
受付の女性が言う。
「でも、登録がありません」
「それは後で考えればいい」
少年は医師を見た。
「僕も、ここにいていいですか?」
医師は少し考えた。
「あなたは元気そうですね」
「妹一人にはできません」
「分かりました」
「ありがとうございます」
少年は妹の隣に座った。
透はその様子を見ていた。
登録されていない。
住所も言えない。
誰に知らせればいいのかも分からない。
それでも、目の前には病気の子どもがいる。
夜になって、受付の女性が透に言った。
「今日のこと、記録にはどう書けばいいと思います?」
「そのままでは?」
「『身元不明の子どもを保護』と書くと、あとで誰かが探しに来るかもしれません」
「そうですね」
「『診療のため一時滞在』なら、少し違います」
透は答えなかった。
女性は困ったように笑った。
「どちらも嘘ではないんですけどね」
「書き方で、意味が変わります」
「はい」
その夜、記録には、
「診療のため一時滞在」
と書かれた。
名前は妹のものだけ。
兄の名前は書かなかった。
住所も空欄だった。
誰が見ても、完全な記録ではない。
けれど、二人にとっては、それが必要だった。
翌朝。
女の子の熱は少し下がった。
少年は椅子で眠っていた。
受付の女性は、記録を見ながら小さく息を吐いた。
「これでいいのかな」
医師が答えた。
「分かりません」
「先生でも?」
「分からないことはあります」
医師は眠っている少年を見た。
「でも、昨日ここに置かなかったら、もっと困っていたかもしれない」
女性はうなずいた。
「そうですね」
二人はそれ以上話さなかった。
記録には書かれていないことが、まだいくつもある。
けれど、その日、二人は診療所にいた。
それだけは誰にも隠せない事実だった。




