第271章 知らないふりをした人
配給所の騒ぎが少し落ち着いた頃、透は町の診療所へ向かった。
最近、食料だけではなく、薬の不足も問題になっていた。
診療所の入口には、数人の人が並んでいる。
その中に、昨日配給所で見かけた若い男がいた。
「今日は薬ですか?」
透が声をかけると、男は振り返った。
「ああ」
「誰かの分?」
「自分です」
男はそれだけ言った。
受付には年配の女性が座っていた。
「症状は?」
「少し熱があります」
「いつから?」
「昨日から」
女性は記録を確認した。
「昨日も来ていますね」
男は黙った。
「昨日は熱がないと言っていました」
「……そうでした」
「今日は?」
「あります」
受付の女性は男の顔を見た。
「薬を出します」
男は少し驚いた。
「昨日のことは?」
「昨日は昨日です」
「嘘をついたのに?」
女性は首を横に振った。
「嘘だったのかどうか、私には分かりません」
「でも、昨日は熱がないと言いました」
「熱がなかったのかもしれません」
男は黙った。
「夜になって出た可能性もあります」
「そんなこと、信じるんですか?」
「信じるというより、確認できないんです」
女性は薬を準備した。
「だから、今日の症状を見ます」
男は薬を受け取った。
「ありがとうございます」
そのまま帰ろうとしたところで、奥から別の声がした。
「ちょっと待って」
若い医師だった。
「昨日の薬、まだありますか?」
男は立ち止まった。
「あります」
「飲みました?」
「はい」
「全部?」
「はい」
医師は少し考えた。
「じゃあ、今日は別の薬にします」
男はうなずいた。
診察が終わったあと、男は外に出た。
透も少し遅れて診療所を出る。
すると、入口の横で男が立っていた。
「どうしたんですか?」
「……昨日、薬をもらったのは本当です」
「はい」
「でも、半分は別の人に渡しました」
透は何も言わなかった。
「その人も熱があったんです」
「診療所には?」
「来られませんでした」
「どうして?」
「歩けないから」
男はしばらく黙った。
「だから、昨日は自分の分だけだと言いました」
「どうして?」
「二人分もらえるか、分からなかったから」
「それで?」
「断られたら困ると思って」
透は診療所の入口を見た。
「その人は、今?」
「寝ています」
「今日の薬は?」
「半分渡します」
「足りなくならないですか?」
「たぶん」
男は笑った。
「足りなくなったら、また来ます」
透は何も言わなかった。
そのとき、診療所から先ほどの受付の女性が出てきた。
男は少し緊張した。
女性は二人を見ると、男に言った。
「さっきの薬ですが」
「はい」
「次に来るときは、二人分必要なら二人分と言ってください」
男の顔が固まった。
「……怒ってますか?」
「怒ってません」
「でも」
「昨日のことを責めるつもりもありません」
女性は少し間を置いた。
「ただ、薬は数が決まっています」
「はい」
「誰かに渡したなら、次はその分も考えないといけません」
男はうつむいた。
「すみません」
「謝る必要はありません」
女性は続けた。
「次に同じことが起きたとき、私たちが判断できるように話してください」
男は顔を上げた。
「……話したら、もらえないかもしれない」
「そうかもしれません」
「それでも?」
「それでもです」
女性は診療所の中へ戻っていった。
男はしばらく動かなかった。
「正直に言ったら、困るかもしれないですね」
透が言った。
男は笑った。
「はい」
「それでも話しますか?」
「分かりません」
少しして、男は歩き出した。
数歩進んでから振り返る。
「でも、次は二人分必要だって言います」
透は黙って見送った。
診療所の中では、次の患者が受付に座っていた。
誰かが本当のことを言えば、薬が足りなくなるかもしれない。
言わなければ、別の誰かが困るかもしれない。
どちらを選んでも、完全に誰かを守れるわけではない。
それでも人は、その日の事情の中で決めていく。
そして翌日になれば、その決め方自体が変わることもある。
診療所の扉が開いた。
また一人、患者が入っていった。




