第270章 言わなかった約束
翌朝、配給所の入口に一枚の紙が貼られていた。
昨日までにはなかった。
「代理受取をする場合は、本人の名前を使用すること」
その下に、小さく続いている。
「受取人以外の名前を使用した場合、確認のため配給を保留することがあります」
紙の前に、人が集まっていた。
「昨日の件だろ」
「そうでしょうね」
「これで勝手に名前を使う人はいなくなる」
「本当に?」
誰かが笑った。
「紙一枚で?」
受付の女は何も言わなかった。
しばらくして、一人の老人が紙を見ながら尋ねた。
「代理で受け取る場合、本人の名前を使うんですか?」
「はい」
「本人が知らない場合は?」
「その場合は、職員に伝えてください」
「本人が知られたくない場合は?」
女は少し考えた。
「その場合は……相談してください」
老人はうなずいた。
「相談すること自体を知られたくない場合は?」
受付の女は答えられなかった。
その様子を見ていた男が言った。
「そんなことまで考えたら、何も決められないですよ」
「そうですね」
女は紙を見上げた。
「だから、決められるところだけ決めたんだと思います」
その日の昼前、一人の青年が受付に来た。
「代理です」
「誰の分ですか?」
青年は名前を言った。
受付の女が記録を確認する。
「その人は、ここに登録されています」
「はい」
「本人から頼まれましたか?」
「はい」
「では、本人の名前で記録します」
青年はうなずいた。
「ありがとうございます」
そのまま帰ろうとした。
「待ってください」
女が呼び止めた。
「本人は、今どこにいますか?」
青年は少し黙った。
「別の場所です」
「どこですか?」
「言いたくありません」
受付の女は困った顔をした。
「確認が必要です」
「でも、場所を言う必要がありますか?」
「代理受取の確認のためです」
青年は袋を受け取らず、その場に立っていた。
「本人がここに来られない理由は、聞かないんですか?」
「それは……」
「聞かなくてもいいんですよね?」
女は答えなかった。
青年は少し考えた。
「じゃあ、今日は受け取りません」
「いいんですか?」
「はい」
青年はそのまま帰った。
受付の女は困ったように彼の背中を見送った。
午後になって、別の男がやってきた。
「代理で受け取りたい」
「本人の名前は?」
男は名前を告げた。
「本人から頼まれましたか?」
「はい」
「どこにいますか?」
男は答えた。
「言えません」
受付の女は、今度はすぐに理由を尋ねなかった。
「では、確認できる範囲で確認します」
男は少し驚いた。
「それでいいんですか?」
「昨日までは、代理受取のルールが曖昧でしたから」
女は新しい紙を見た。
「今日は、ここまで確認することになっています」
「どこまで?」
「本人の登録があること。代理人が本人から頼まれたと言っていること。それ以上のことは、今は決まっていません」
男はうなずいた。
「それなら受け取れますか?」
「はい」
袋が渡された。
男は頭を下げて帰っていった。
夕方、受付の女は一人で新しい規則を見ていた。
透が横を通る。
「昨日より簡単になりましたか?」
「いいえ」
女は笑った。
「昨日より難しくなりました」
「どうして?」
「昨日は、分からないことが多すぎたんです」
「今日は?」
「分からないことが、どこから先なのか分かるようになっただけです」
透は紙を見る。
そこには短い文章しか書かれていない。
それでも、昨日までより多くの人が考えることになった。
「規則って、増やすほど簡単になると思ってました」
女が言った。
「でも、増やすほど例外も見えてくるんですね」
透は答えなかった。
その日の夜。
配給所の入口に貼られた紙が、風で少し揺れていた。
誰かを守るために作った規則が、
別の誰かにとっては、説明しなければならない理由になる。
そして、その理由を説明したくない人もいる。
紙に書かれているのは、たった数行だった。
その数行の外側には、
まだ書かれていない人たちがいた。




