第269章 信じなかった人
午後になると、配給所の前で小さな騒ぎが起きた。
一人の女性が、受付の机を挟んで職員と話している。
「昨日、私の名前で受け取ったことになっています」
「確認します」
職員が記録をめくる。
「確かに、昨日の夕方に一人分です」
「でも、私は受け取っていません」
「誰かに代わりに頼みましたか?」
「頼んでません」
職員は記録を見直した。
「名前は間違っていません」
「名前が同じ人はいませんか?」
「この場所では、今のところ確認されていません」
女性は黙った。
後ろにいた男が口を挟んだ。
「じゃあ、誰かが勝手に名前を使ったんじゃないですか?」
職員は答えなかった。
女性は少し考えてから言った。
「昨日、私の隣の部屋にいた人が、私の名前を知っています」
「その人に聞いてみますか?」
「……いいです」
「どうして?」
女性は目を伏せた。
「聞いたら、たぶん私が疑ったことが分かるから」
「それは困りますか?」
「分かりません」
女性は少し笑った。
「でも、今は聞きたくないです」
職員は記録に目を戻した。
「では、昨日の一人分については?」
「返します」
女性は小さな袋を机に置いた。
「今日、別の人からもらいました」
「昨日の分は使っていないんですか?」
「使っていません」
「どうして返すんですか?」
「自分のものじゃないかもしれないから」
職員は女性を見る。
「あなたの名前で記録されています」
「でも、私が受け取ったものじゃないから」
しばらく沈黙が続いた。
後ろの男が言った。
「それなら、誰かが受け取ったことになりますよね」
「そうですね」
「だったら、その人を探したほうがいいんじゃないですか?」
女性は答えなかった。
職員も何も言わなかった。
やがて女性は袋を置いて、その場を離れた。
透はその様子を見ていた。
しばらくして、受付の職員が記録を書き直した。
昨日の欄に、
「返却」
と記入する。
その横には、
「本人申告」
とだけ書かれた。
透が近づくと、職員が言った。
「変ですよね」
「何がですか?」
「昨日は、名前が一致していたから渡したんです」
「はい」
「今日は、名前が一致しているからこそ、本人が疑っている」
透は記録を見た。
「名前が同じでも、受け取った人が同じとは限らない」
「そうなんですよね」
職員はため息をついた。
「でも、毎回本人確認を細かくやっていたら、今度は配給そのものが遅くなる」
「難しいですね」
「はい」
職員は少し笑った。
「結局、ある程度は信じるしかないんでしょうね」
透は答えなかった。
その日の夕方。
配給所を出た女性が、一人で歩いていた。
透は偶然、少し離れた場所からその姿を見かけた。
女性は誰もいない路地に入った。
そこで立ち止まり、壁にもたれた。
しばらくすると、別の女性が現れた。
「返したの?」
「うん」
「どうして?」
「私の名前で受け取ったことになってたから」
「あなたが受け取ったことにすればよかったのに」
「できないよ」
「誰も分からないでしょう」
「私が分かる」
もう一人の女性は黙った。
「昨日、あなたが代わりに受け取ってくれたことは、誰にも言わない」
「うん」
「じゃあ、どうして返したの?」
最初の女性は少し考えた。
「あなたが受け取ったことを隠すために、私の名前を使うのは嫌だった」
「でも、あなたが困るんじゃない?」
「少しね」
「それでも?」
「それでも」
二人はしばらく黙っていた。
やがて、後から来た女性が言った。
「じゃあ、明日は私が自分の名前で受け取る」
「できるの?」
「分からない」
二人は小さく笑った。
透は遠くからそれを見ていた。
さっきまで、誰かが他人の名前を使った。
記録だけを見れば、それは間違いだった。
けれど、その間違いには理由があった。
そして、その理由を記録に残さないことにも、また理由があった。
透は二人に声をかけなかった。
ただ、そのまま歩き出した。
今日、誰が嘘をついたのか。
それを考えることよりも、
誰が誰を守ろうとしていたのかを考えるほうが、
少しだけ難しい気がした。




