第267章 信じられない人
仕事の割り振りが変わってから、数日が経った。
倉庫では、以前よりも人の入れ替わりが多くなった。
運搬をしていた人が受付に来る。
受付にいた人が調理場へ行く。
調理場にいた人が、午後だけ倉庫を手伝う。
最初のうちは、誰もが少し戸惑っていた。
「この人に任せて大丈夫なの?」
そんな声も、何度か聞こえた。
けれど、仕事が止まることはなかった。
うまくできない人がいれば、別の人が手伝った。
逆に、思った以上にできる人が見つかることもあった。
その日の午後、受付の前で一人の男が立ち止まった。
三十歳くらいだった。
手には小さな紙袋を持っている。
「これ、返します」
受付の女が顔を上げた。
「何をですか?」
「食料です」
男は紙袋を机の上に置いた。
中には缶詰が三つ入っていた。
「昨日、もらったものです」
「どうして?」
男は少し黙った。
「……必要なくなったので」
受付の女は缶詰を見た。
「家族の分では?」
「いません」
「一人分だったんですか?」
「はい」
女は記録を確認した。
確かに、昨日この男には一人分が渡されていた。
「返却の理由を書きますね」
そう言って、紙を取り出す。
男の手が、少しだけ動いた。
「理由は書かなくていいです」
「返却したことだけ?」
「はい」
「でも、理由を書く欄があります」
男は答えなかった。
受付の女も、すぐには書かなかった。
少し離れたところで、透がその様子を見ていた。
男はしばらくしてから言った。
「……昨日、二人分をもらった人がいたでしょう」
女の手が止まった。
「それが何か?」
「その人、家族がいるって言ってました」
「ええ」
「でも、今日見たら、一人でした」
女は男を見た。
「それで?」
「別に」
男は紙袋を持ち上げようとした。
「だったら、返さなくてもよかったんじゃないですか」
女が言った。
男は手を止めた。
「どういう意味ですか?」
「あなたが必要だったなら、持っていてもいいんです」
「必要じゃないから返したんです」
「そうですか」
女はそれ以上聞かなかった。
男は紙袋を置いたまま、しばらく立っていた。
やがて、
「……あの人、嘘をついてると思います」
と言った。
受付の女は答えなかった。
「二人分もらった理由についてです」
「そうかもしれませんね」
「それでも渡すんですか?」
「昨日の時点では、渡す理由がありました」
「今は?」
「今は、分かりません」
男は納得できないようだった。
「嘘をついた人に、また渡すんですか?」
「その人が今日、何を必要としているかは別の話です」
「でも、嘘ですよ」
「そうですね」
女は静かに答えた。
「嘘をついたことと、今日困っていることは、同じじゃありませんから」
男は何も言わなかった。
そのまま紙袋を置いて、立ち去った。
受付の女は缶詰を確認し、返却の記録を書いた。
理由の欄には、
「本人希望」
とだけ書いた。
透はその文字を見た。
以前なら、理由を知りたいと思ったかもしれない。
けれど今は、少し違った。
理由を知れば、判断できる。
だが、理由を知らないからこそ、判断しなくて済むこともある。
そんなことを考えていると、別の男が受付に来た。
「昨日の人、返したんですか?」
「はい」
「三つ全部?」
「はい」
男は少し笑った。
「じゃあ、あの人、本当は余ってたんですね」
受付の女は顔を上げた。
「それは分かりません」
「でも返したんでしょう?」
「返したことは事実です」
「だったら余ったんじゃないですか」
「返した理由までは、記録されていません」
男は少し考えた。
「……面倒ですね」
「そうですね」
女は笑った。
「人間は、記録ほど簡単じゃありませんから」
男は何も言わず、受付を離れた。
透はその背中を見送った。
一つの出来事から、いくつもの話が生まれる。
必要なかった。
誰かに譲った。
嘘をついて多くもらった。
本当は困っている。
誰かを疑っている。
どれも、可能性としては残っている。
ただ、今ここにある事実は一つだけだった。
三つの缶詰が、戻ってきた。
それ以上のことは、まだ誰にも分からない。
透は受付の机に置かれた記録を見た。
「本人希望」
その四文字だけが残っていた。
そして、その四文字を見た人間が、それぞれ別の話を作っていく。
そんなことは、たぶんこれからもなくならない。
だからこそ、何を記録し、何を記録しないのか。
その選択もまた、人が作るものだった。




