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嘘の向こう側  作者: 亀


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第265章 向いている人

受付の仕事を始めてから、一週間が経った。


男はまだ時々間違えた。


数字を一つ書き間違える。


名前の漢字を間違える。


配給券を別の人に渡しかける。


そのたびに確認するようになった。


「最初よりは、慣れたね」


受付の女性が言った。


「そうですか?」


「うん」


男は少し嬉しそうだった。


その日の午後、一人の若い女性が受付に来た。


「仕事を変えたいんですけど」


「今は何をしていますか?」


「清掃です」


「何か困っていますか?」


「掃除が嫌なんです」


受付の女性は少し笑った。


「嫌い?」


「はい」


「じゃあ、何がしたい?」


女性は黙った。


「分かりません」


「得意なことは?」


「それも分かりません」


「やったことがない仕事は?」


「ほとんど全部です」


受付の女性は困ったように笑った。


「じゃあ、一つずつ試してみるしかないですね」


女性は名簿を見る。


「ここ、空いてますか?」


「倉庫整理なら、明日から試せます」


「それ、私に向いてますか?」


受付の女性は答えなかった。


「やってみないと分かりません」


「でも、向いてなかったら?」


「戻ればいい」


「そんな簡単に?」


「簡単ではないけど、戻ることはできます」


女性はしばらく考えた。


「じゃあ、やってみます」


翌日、その女性は倉庫に入った。


最初の一時間で、二度場所を間違えた。


箱の種類も覚えられなかった。


「やっぱり向いてない」


昼前にはそう言っていた。


倉庫を担当していた男が聞いた。


「もうやめる?」


「はい」


「分かった」


男はそれ以上何も言わなかった。


女性は少し驚いた。


「止めないんですか?」


「どうして?」


「向いてないから、もう少しやったほうがいいとか」


「それは俺が決めることじゃない」


女性は黙った。


「でも、明日もやってみたいなら、明日も来ればいい」


「……」


「今日でやめたいなら、それでもいい」


女性は倉庫の中を見た。


棚には、同じような箱が並んでいる。


「もう一日だけやってみます」


「分かった」


翌日、女性は来た。


その翌日も来た。


一週間後には、箱の場所をほとんど覚えていた。


ある日、別の作業員が言った。


「この人、倉庫向いてるんじゃない?」


女性は笑った。


「最初は全然向いてなかったですよ」


「でも今はできる」


「そうですね」


少し離れたところで、受付の男がその会話を聞いていた。


仕事が終わったあと、彼は女性に声をかけた。


「倉庫、楽しいですか?」


「楽しいというより、分かるようになってきた感じ」


「向いてるんじゃないですか?」


女性は少し考えた。


「分からない」


「え?」


「向いてるって言われると、また分からなくなる」


男は黙った。


女性は笑った。


「最初に向いてないって言われたときも、別に証明できなかったから」


「今も?」


「今も」


「じゃあ、何を信じてるんですか?」


女性は少し考えてから答えた。


「今日、できたこと」


男は何も言わなかった。


その日の夜、透と彼女は倉庫の前を通った。


「向いてる、って便利な言葉だね」


彼女が言った。


「うん」


「できるようになった理由を考えなくて済む」


透は彼女を見る。


「どういうこと?」


「向いてるからできる。向いてないからできない。そう言えば、途中のことを考えなくていい」


「途中?」


「練習したとか、慣れたとか、失敗したとか、教えてもらったとか」


透は少し考えた。


「逆に、向いてないと思われたら?」


「本人も、やめる理由にできる」


「それも便利だね」


「うん」


二人は倉庫の中を見た。


昨日まで運搬をしていた男は、受付にいる。


最初に受付へ来た女性は、今では倉庫にいる。


誰がどこに向いているのかは、


最初から決まっていたわけではなかった。


けれど、人は時々、


最初から決まっていたように話す。


そして、その言葉を聞いた本人まで、


それを自分の過去だったと思い始める。


その夜、壁に貼られた仕事の名簿がまた書き換えられた。


誰かの名前の横に、新しい仕事が加わった。


その横には、


「試用」


という小さな文字が残されていた。


まだ、誰もその人が何に向いているのかを知らなかった。

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