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嘘の向こう側  作者: 亀


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第262章 返さなかったもの

その翌日、配給所に一人の女性が来た。


受付の前に立つと、少し迷ってから言った。


「これ、返したいんです」


手には、小さな薬の包みがあった。


係の女性が確認する。


「配給されたものですか?」


「はい」


「使わなかった?」


「少しだけ使いました」


「それなら、残りを返す必要はありません」


女性は首を振った。


「でも、返したいんです」


「どうして?」


「もらったものだから」


係の女性は薬を受け取った。


「分かりました」


女性はそのまま帰ろうとした。


しかし、入口のところで立ち止まった。


「一つ聞いていいですか?」


「はい」


「これを返したこと、記録されますか?」


「通常は記録します」


女性は黙った。


「記録しないでほしいです」


係の女性は少し考えた。


「理由を聞いてもいいですか?」


「聞かないでください」


その言葉に、受付の女性はそれ以上聞かなかった。


「分かりました」


女性は頭を下げて帰っていった。


彼女がその後ろ姿を見ながら言った。


「また、理由を言わない人だね」


「うん」


「今回は何なんだろう」


透は答えなかった。


薬の包みを見た。


少し使われている。


でも、残りはきれいに包まれていた。


「返したことを知られたくない理由があるんじゃない?」


「それって、悪いこと?」


「分からない」


「またそれ?」


「うん」


昼過ぎになって、その女性が戻ってきた。


今度は一人だった。


受付の前に座る。


「さっきのことですが」


「はい」


「やっぱり、返した記録を残してください」


受付の女性が驚いた。


「いいんですか?」


「はい」


「何か事情が変わりました?」


女性は少し笑った。


「事情は変わっていません」


「では、どうして?」


「さっきは、誰かに知られるのが嫌だったんです」


「今は?」


「知られてもいいと思いました」


受付の女性は頷いた。


「分かりました」


女性は薬の包みを見た。


「これ、私が使った分まで記録されますか?」


「通常は残量だけです」


「そうですか」


「何か気になりますか?」


「いえ」


女性は少し考えてから言った。


「使ったことまで知られると、次に薬をもらえなくなる気がして」


受付の女性は黙った。


「だから、最初は返したことだけ隠したかった」


「今は?」


「今は、返したことをちゃんと残しておいたほうがいいと思いました」


「どうして?」


女性は答えた。


「自分でも、よく分かりません」


そう言って笑った。


「昨日までは、記録が怖かったんです」


「はい」


「でも、記録がないほうが怖いこともあるんですね」


受付の女性は頷いた。


「あります」


女性は立ち上がった。


「じゃあ、お願いします」


「はい」


女性が帰ったあと、彼女が言った。


「昨日と今日で、同じ人なのに考えが変わった」


「そうだね」


「嘘をついたわけじゃない」


「うん」


「でも、言ってることは変わった」


透は少し考えた。


「人って、最初に決めたことをずっと守る必要はないんじゃないかな」


「それはそうだけど」


「そのときは、それが一番いいと思った」


「後になって違うと思った」


「うん」


彼女は受付の奥にある帳簿を見た。


「じゃあ、昨日の記録と今日の記録が違っても、どっちかが嘘とは限らない」


「そうだと思う」


「時間が変われば、本人の判断も変わる」


「うん」


「それなら、人の言葉だけを並べていくと、矛盾だらけになるね」


透は笑った。


「たぶん、人間のほうが先に変わってるんだと思う」


その日の夕方、返却された薬が棚に並べられた。


一つには返却者の名前がある。


もう一つには名前がない。


係の女性は、しばらく二つを見比べた。


そして、名前のないほうには、ただ、


「返却済み」


とだけ書いた。


透はそれを見ていた。


名前がない。


理由もない。


事情もない。


それでも、そこには一つの選択が残っている。


返したという事実だけが残っていた。


その夜、彼女が言った。


「記録って、人を固定するものだと思ってた」


「うん」


「でも、本当は、その時点の人を残してるだけなのかもしれないね」


透は答えなかった。


帳簿のページには、昨日の判断と今日の判断が並んでいた。


どちらも同じ人のものだった。


どちらも、その時には本人が選んだことだった。


そしてその二つの間にある時間までは、


紙には残らなかった。

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