第261章 話さない人
数日後、配給所に一人の男が来た。
四十代くらいだった。
受付の前に立つと、男は一枚の紙を差し出した。
「これについて、確認したいんですが」
係の女性が紙を見る。
「名前は?」
男は少し黙った。
「名前は、言わなくてもいいですか」
女性は顔を上げた。
「内容によります」
「じゃあ、名前は言いません」
「分かりました」
男は少し安心したようだった。
紙には、数日前に配給された物資について書かれていた。
「この日に、ここから薬を受け取った人がいると思うんです」
「薬ですか?」
「はい」
「誰が受け取ったかを確認したい?」
「そうです」
女性は帳簿を確認した。
「記録はあります」
男は身を乗り出した。
「誰ですか?」
女性は答えなかった。
「すみません」
「どうして?」
「その人が、自分の名前を他の人に伝えないでほしいと言っています」
男は眉を寄せた。
「でも、その薬は僕の家族が持ってきたものなんです」
女性が顔を上げる。
「どういうことですか?」
「避難するときに、家にあった薬を持ってきました」
「それを配給所に渡した?」
「はい」
「だったら、確認したいのは分かります」
「ですよね」
男は少し強く言った。
「誰が持っていったのか知りたいんです」
女性は帳簿を閉じた。
「分かります」
「だったら」
「でも、名前は伝えられません」
男は黙った。
しばらくして、低い声で言った。
「それは、おかしくないですか」
「おかしいかもしれません」
「僕の物だったんですよ」
「はい」
「その薬で助かった人がいるなら、誰なのか知りたい」
「はい」
「お礼くらい言いたい」
女性は少し困った顔をした。
「それも、分かります」
男は納得できないまま、受付を離れた。
少し離れたところで、その様子を見ていた彼女が言った。
「今度は、感謝したい人なんだね」
「うん」
「それでも、名前を知られたくない人がいる」
「うん」
「変なの」
透は男の背中を見た。
「変ではないと思う」
「どうして?」
「感謝されることが怖い人もいるかもしれない」
彼女は少し黙った。
「感謝されるのが怖い?」
「その人が何をしたかによると思う」
「たとえば?」
「誰かを助けたことを知られたら、次も助けてほしいと言われるかもしれない」
彼女は頷いた。
「なるほど」
「一度助けた人が、次も助けられるとは限らない」
「だから、最初から名前を出さない」
「そうかもしれない」
その日の夕方、男がまた来た。
今度は一人ではなかった。
小さな女の子を連れていた。
女の子は受付の前で、しばらく黙っていた。
男が言った。
「この子が、薬を使った本人です」
係の女性がしゃがむ。
「そうなの?」
女の子は頷いた。
「ありがとうって言いたい」
女性は少し困った。
「誰に?」
女の子は答えなかった。
男も何も言わなかった。
しばらくして、女性が一枚の紙を取り出した。
「名前を教えなくてもいいなら、伝言だけ預かることはできます」
男が顔を上げた。
「それはできますか?」
「はい」
「本人に届く保証は?」
「ありません」
「それでも?」
「それでもよければ」
女の子が紙を受け取った。
まだ文字を書くのが上手ではなかった。
小さな字で、ゆっくり書いた。
「ありがとう」
それだけだった。
女性は紙を受け取った。
「渡しておきます」
女の子は頷いた。
帰り際、男が振り返った。
「名前を知らなくても、ありがとうは言えるんですね」
女性は笑った。
「たぶん」
その夜、透はその紙を見ていた。
たった二文字だった。
名前はない。
住所もない。
事情もない。
誰から誰へなのかも、紙だけでは分からない。
それでも、その紙には確かに意味があった。
彼女が隣に座った。
「これも記録?」
「たぶん」
「たぶん?」
「残すための記録じゃなくて、伝えるための記録」
彼女は笑った。
「記録にも色々あるね」
透は紙を見た。
「名前がなくても、伝わることがある」
「うん」
「逆に、名前があっても、伝わらないこともある」
彼女は少し考えた。
「じゃあ、名前って、そんなに大事じゃないのかな」
「大事だと思う」
「でも?」
「名前だけでは足りない」
彼女は頷いた。
その日の夜、配給所の机には一枚の紙が残された。
「ありがとう」
誰が書いたのか。
誰に向けたのか。
その二つだけは、分かっていた。
それ以外のことは、分からない。
けれど、その分からない部分を埋めなくても、
言葉は誰かに届くことがある。
そして時には、
知らないままでいることが、言葉を届けるために必要なこともあった。




