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嘘の向こう側  作者: 亀


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第260章 書かれなかった理由

翌日の朝、帳簿を整理していた係の女性が、ある紙を見つけた。


昨日の食料移動についての記録だった。


日付。


数量。


移動先。


担当者。


必要な項目は、すべて書かれている。


けれど、一つだけ空欄があった。


「理由」が空いていた。


女性はしばらくその紙を見ていた。


「これ、誰が書いたんですか?」


責任者が答えた。


「私です」


「理由は?」


「書いていません」


「どうして?」


責任者は少し考えた。


「本人が話したくないと言ったからです」


女性は紙を指で押さえた。


「でも、理由が分からないと、あとで判断できないんじゃないですか?」


「そうですね」


「だったら、書いたほうがいいのでは?」


「本人に聞けば、たぶん答えてくれるでしょう」


「じゃあ、聞かないんですか?」


責任者は首を横に振った。


「聞きません」


「どうして?」


「昨日、本人が話したくないと言ったからです」


女性は納得できない様子だった。


「でも、記録のためですよ」


「分かっています」


「配給の管理にも必要です」


「分かっています」


「それでも?」


責任者は紙を見た。


「それでもです」


透は少し離れた場所で、その会話を聞いていた。


彼女も近くにいた。


「昨日の話だね」


「うん」


「理由を残さなかった」


「うん」


「でも、それって後から困るんじゃない?」


「困ると思う」


「じゃあ、どうして?」


透は答えなかった。


責任者が紙を棚にしまった。


「記録は、全部を残すためにあるわけではありません」


女性が顔を上げた。


「どういう意味ですか?」


「必要なことを、後から確認できるようにするためです」


「必要なことと、知りたいことは違う?」


「たぶん」


女性はしばらく考えていた。


「でも、誰かにとって必要なことが、別の人にとっては必要じゃない場合もありますよね」


「あります」


「じゃあ、誰が決めるんですか?」


責任者は少し笑った。


「だから難しいんです」


その日の昼、昨日の青年が再びやってきた。


「昨日の件です」


係の女性が顔を上げる。


「はい」


「食料を持ってきた人から、話を聞きました」


「そうですか」


「本人が、自分から教えてくれました」


「何を?」


青年は少し迷った。


「妹が病気だったそうです」


女性は黙った。


「だから、急いで持ってきた」


「そうですか」


「でも」


青年は続けた。


「そのことは記録に残さないでほしいと言われました」


係の女性は少し驚いた。


「あなたにも?」


「はい」


「どうして?」


青年は苦笑した。


「僕にも分かりません」


透はその言葉を聞いていた。


昨日とは違う。


今度は、本人が自分から話した。


けれど、その話を記録に残すことまでは望まなかった。


青年は言った。


「最初は、隠しているのが嫌でした」


「はい」


「でも、話を聞いたら、少し分かった気がします」


「何が?」


「誰かに知られる必要がないこともあるんだなって」


係の女性は頷いた。


「そうですね」


「でも、僕たちが勝手に判断するのも違う」


「はい」


「だから、本人に決めてもらう」


女性は笑った。


「それが一番いいかもしれません」


青年は帰っていった。


彼女が透のところへ来た。


「面白いね」


「何が?」


「昨日は、隠すことで不信感が生まれた」


「うん」


「今日は、本人が自分で話したから、少し違った」


「うん」


「でも、話したことを全部記録するわけじゃない」


透は頷いた。


「情報を持っていることと、情報を使っていいことは、別なんだと思う」


彼女は少し考えた。


「それ、結構大事かもね」


「うん」


「知っているからといって、他の人に言っていいわけじゃない」


「そうだね」


「でも、言わないことで誰かが困ることもある」


「うん」


二人は黙った。


どちらを選んでも、別の問題が生まれる。


だから、人は決める。


そして、その決定には、いつも何かが足りない。


その夕方、透は一人で帳簿を見ていた。


昨日までなら、空欄を見ると、


「なぜ書かなかったのか」


と考えた。


今は少し違った。


「なぜ書かなかったのか」と、


「なぜ書かないことを選んだのか」は、


同じではない。


前者は理由を探す。


後者は、その人が置かれていた状況まで考える。


もちろん、それでも分からないことは多い。


むしろ、考えれば考えるほど分からなくなることもある。


透は帳簿を閉じた。


空欄は、そのまま残った。


そこには理由がない。


しかし、理由がないのではない。


理由が、記録されていないだけだ。


透はその違いを、少しだけ理解できるようになっていた。

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