第259章 見せないこと
翌朝、配給所の壁に貼られた規則の前で、人が集まっていた。
昨日追加された一文について、何人かが話している。
「個人情報を残さないって、どういう意味?」
「必要以上には残さないってことじゃない?」
「誰が必要だと決めるの?」
「分からない」
「じゃあ、誰かが勝手に消してもいいの?」
質問が続いた。
責任者はしばらく黙って聞いていた。
「消していいわけではありません」
「じゃあ、何を残すんです?」
「必要な情報です」
「だから、その必要かどうかを誰が決めるの?」
責任者は少し困った顔をした。
「その場の担当者です」
「それじゃ、担当者によって変わるでしょう」
「変わると思います」
「それでいいんですか?」
責任者はすぐには答えなかった。
「よくないかもしれません」
その返事に、周囲がざわついた。
「だったら、ちゃんと決めればいいじゃないですか」
「全部決めることはできません」
「どうして?」
「事情が全部同じではないからです」
誰かが首を傾げた。
「昨日の女性みたいな場合もある」
「他にも?」
「あります」
責任者は壁の紙を見た。
「名前を残したことで、その人の居場所が知られてしまうこともあります」
「でも、名前がないと、あとで確認できない」
「はい」
「じゃあ、結局どっちなんです?」
「分かりません」
また、その言葉だった。
しかし今度は、誰も笑わなかった。
透は少し離れたところで、そのやり取りを聞いていた。
彼女が隣に立った。
「みんな、答えが欲しいんだね」
「うん」
「でも、答えが一つじゃない」
「うん」
「それでも決めないといけない」
透は頷いた。
「たぶん、それが一番難しい」
その日の昼頃、一人の青年が受付に来た。
「昨日の記録を見せてもらえますか?」
係の女性が顔を上げた。
「どの記録ですか?」
「東の避難所に食料を持っていった件です」
「どうして?」
「確認したいことがあります」
女性は少し迷った。
「あなたは関係者ですか?」
「東の避難所で働いています」
「そうですか」
女性は帳簿を開いた。
青年は覗き込もうとした。
しかし、女性は手で紙を少し隠した。
「すみません」
「何ですか?」
「全部は見せられません」
青年の顔が曇った。
「どうしてですか?」
「個人情報が入っています」
「僕は関係者です」
「それでもです」
「じゃあ、何なら見せてもらえるんです?」
女性は少し考えた。
「食料が移動したこと」
「誰が持っていったかは?」
「それは言えません」
青年は黙った。
「でも、僕たちが受け取った食料ですよ」
「分かっています」
「なのに、誰が持ってきたかも分からない?」
「あなたが知る必要があるかどうか、今は判断できません」
青年は不満そうにした。
「それじゃ、信用できない」
女性は何も言わなかった。
青年はしばらく受付を睨んでいたが、やがて帰っていった。
彼女がその背中を見送った。
「隠したね」
「うん」
「昨日とは逆だね」
「そうだね」
昨日は、情報を残さないことで誰かを守った。
今日は、情報を見せないことで誰かを守った。
けれど、見せなかったことで、別の人間は不信感を抱いた。
透は帳簿を見た。
「どっちも同じかもしれない」
「何が?」
「隠すこと」
「守るため?」
「守るためのこともある」
「じゃあ、今日の人も納得してくれるかな」
「分からない」
彼女は笑った。
「本当に、分からないばっかり」
「でも」
透は青年が去っていった方向を見た。
「見せないことが、相手にとっては嘘と同じになることもあると思う」
彼女は少し黙った。
「それなら、隠すことって危ないね」
「うん」
「守りたい人がいるから隠した。でも、そのせいで別の人から信用されなくなる」
「うん」
「じゃあ、誰かを守るための嘘は、結局、別の誰かを傷つけることもある」
透は答えなかった。
その日の夕方、受付の女性が青年を呼び止めた。
「昨日の件ですが」
青年が振り返る。
「はい」
「食料が移動したことは確認できます」
「はい」
「あなたたちが受け取った分も、記録上は確認できます」
「じゃあ、誰が持ってきたかは?」
女性は少し考えた。
「本人に確認して、本人が公開していいと言えば、伝えます」
青年は驚いた顔をした。
「本人に?」
「はい」
「そこまで待つんですか?」
「そうします」
青年はしばらく黙っていた。
やがて頷いた。
「分かりました」
それだけ言って帰っていった。
彼女が透を見る。
「今度は少し違ったね」
「うん」
「隠したままじゃなくて、本人に決めてもらった」
透は頷いた。
情報を持っている人。
情報を知らない人。
情報を知りたい人。
そして、情報を知られたくない人。
それぞれの立場は違う。
一つの記録を見ても、必要としているものは同じではない。
透は壁の規則を見上げた。
昨日まで、規則は人を守るためのものだと思っていた。
今は、それだけではない気がしていた。
規則は、誰かに代わって決めるためのものでもある。
だからこそ、規則を作る人間は、自分が何を決めているのかを知らなければならない。
そして時には、
決めないという選択肢も残しておかなければならない。
夜になった。
配給所の扉が閉まる。
帳簿は棚に戻された。
名前も、人数も、移動した食料も、その日のうちに記録された。
けれど、記録されなかった理由までは、どこにも書かれていなかった。
透はそのことに気づいた。
そして初めて、
「書かれていないこと」も、一つの情報なのかもしれない。
そう思った。




