第258章 守るための規則
新しい規則が貼られてから、三日が過ぎた。
配給所で大きな問題は起きなかった。
緊急時に食料を移動させる場合は、あとから記録を残す。
それだけのことだった。
しかし、四日目の朝。
一人の女性が、受付の前で立ち止まった。
「昨日の夜、弟に食料を持っていきました」
係の女性が顔を上げる。
「どこへ?」
「東の避難所です」
「記録は?」
「ありません」
「どうして?」
女性は黙った。
それから、小さな声で言った。
「弟が、熱を出したんです」
受付の女性は少し考えた。
「どれくらい持っていきました?」
「二日分です」
「二日分……」
「お願いします。記録に残さないでください」
その言葉を聞いて、周囲にいた人たちが振り返った。
「どうして?」
女性は答えなかった。
係の女性が聞いた。
「弟さんは、今も東の避難所に?」
「はい」
「名前は?」
女性は名前を言った。
係の女性が名簿を確認する。
「この人ですね」
「はい」
「でも、この人は昨日もこちらで受け取っています」
女性は黙った。
「どういうことですか?」
しばらくして、女性が言った。
「……それ、私の名前です」
「え?」
「弟は、この名簿には登録されていません」
係の女性は理解した。
「だから、あなたの分を持っていった?」
女性は頷いた。
「弟は登録すると、ここへ戻されるかもしれないから」
「戻される?」
「家族のところに」
彼女の声が少し震えた。
「弟は、ここにいたくないんです」
「どうして?」
「前に、ここで働いていた人と喧嘩したから」
係の女性は黙った。
「その人が今もいるんです」
「だから、弟さんは登録したくない」
「はい」
「でも、食料は必要」
「はい」
「だから、自分の分を渡した」
「はい」
話を聞いていた透は、少し離れたところで立っていた。
彼女が隣に来る。
「まただね」
「うん」
「規則を守ると、弟が困る」
「うん」
「規則を破ると、別の人が困る」
透は頷いた。
係の女性は新しい規則を見た。
壁には、
《緊急時の食料移動について》
と書かれている。
女性はしばらく考えてから言った。
「今回は記録します」
姉が顔を上げる。
「でも、名前は?」
「あなたの名前だけにします」
「それだと……」
「弟さんの名前は書きません」
姉は驚いた。
「いいんですか?」
「規則には、誰の名前を書くかまでは決まっていません」
「でも、あとで問題になったら?」
「そのときは、私が説明します」
姉は何も言わなかった。
やがて、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
女性は受付を離れた。
彼女が透を見る。
「今の、どう思う?」
「分からない」
「また?」
「うん」
「でも、今回は少し分かるんじゃない?」
透は少し考えた。
「守りたいものがあると、人は規則を曲げるんだと思う」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
透は壁の規則を見た。
「規則が守ってくれるものもある」
「うん」
「だから、規則を破ることがいつも悪いとも言えないし、守ることがいつも正しいとも言えない」
彼女は少し笑った。
「じゃあ、規則って何のためにあるんだろう」
透は答えなかった。
その日の夕方、責任者が壁の前に立っていた。
新しい紙を持っている。
「また変えるんですか?」
係の女性が尋ねる。
「少しだけ追加します」
紙には、新しい一文が書かれた。
《緊急時の事情について、本人の安全に関わる場合は、必要以上の個人情報を記録しないこと》
それを読んで、係の女性が言った。
「これでいいんでしょうか」
責任者は首を横に振った。
「分かりません」
「分からないのに?」
「だから、また必要になったら変えます」
係の女性は笑った。
「規則って、完成しないんですね」
「たぶん」
二人は新しい紙を壁に貼った。
その夜、透は彼女と道を歩いていた。
「今日のこと、記録には残るね」
彼女が言った。
「うん」
「でも、弟の名前は残らない」
「うん」
「じゃあ、記録に残らない人もいる」
「いると思う」
彼女はしばらく歩いた。
「それって、少し怖いね」
透は頷いた。
「でも」
「でも?」
「名前を残すことが、その人を守るとは限らないから」
彼女は黙った。
二人の足音だけが、暗い道に響いた。
遠くで誰かが笑っている。
誰かが誰かを呼んでいる。
その声の中には、名前もあれば、名前のない人もいる。
そして社会は、すべての人を完全に記録することなく、それでも明日へ進んでいく。
透は歩きながら思った。
守るために隠すこともある。
守るために残すこともある。
その違いを決めるのは、紙ではない。
紙を使う人間だった。




