第257章 知らないまま決めたこと
午後、配給所の裏で、三人の男が話していた。
声は低かったが、透たちのいるところまで聞こえてきた。
「だから、昨日の分は戻してもらうべきだ」
「誰に?」
「持っていった人に決まってる」
「もう食べたんじゃないか」
「それでもだ」
「じゃあ、どうやって返してもらう?」
誰も答えなかった。
少し離れたところで、彼女が腕を組んでいた。
「昨日の話が、もう別の問題になってるね」
「うん」
「誰かが食料を持ち出したことより、誰が責任を取るかになってる」
透は三人を見た。
そのうちの一人が、紙を持っていた。
「今日中に決めよう」
「何を?」
「今後、配給所から別の場所へ食料を移す場合は、必ず許可を取る」
「それなら分かりやすい」
「分かりやすいけど、昨日みたいなことが起きたら?」
「許可を取ればいい」
「夜中だったら?」
「担当者を呼ぶ」
「担当者がいなかったら?」
「それは……」
男は黙った。
透はその会話を聞きながら、昨日の男性を思い出した。
食料が足りない避難所。
すぐに必要だったもの。
許可を待っていれば、間に合わなかったかもしれない。
けれど、許可なしに持ち出せば、今度は別の場所の人間が困る。
三人のうち、一人が言った。
「例外を認めたら、また同じことが起きる」
「でも、例外が必要な場合もある」
「じゃあ、誰が例外を決める?」
その言葉で、話が止まった。
彼女が透を見る。
「難しいね」
「うん」
「ルールを作るだけなら簡単なのに」
「ルールを作ったあとが難しいんだと思う」
そのとき、責任者の男がやってきた。
「話は聞きました」
三人が振り返る。
「どうしますか?」
一人が尋ねた。
責任者は少し考えた。
「原則として、勝手に持ち出すのは禁止します」
「はい」
「ただし、緊急時は例外を認めます」
「それだと、昨日と同じでは?」
「違います」
責任者は紙を広げた。
「緊急時だったことを、後から記録してください」
「後から?」
「誰が、いつ、どこへ、何を持っていったのか」
「でも、昨日の人は記録しなかった」
「だから、今回から記録するんです」
男は少し納得したように頷いた。
しかし、別の男が言った。
「それでも、嘘を書く人はいるでしょう」
責任者は彼を見る。
「いるでしょうね」
「じゃあ、意味がない」
「そうは思いません」
「なぜ?」
責任者は紙を折った。
「嘘がなくなるとは思っていません」
三人が黙る。
「でも、何も記録がなければ、あとから確認することもできません」
透はその言葉を聞いた。
記録は真実を保証しない。
それでも、記録があることで、後から考え直すことはできる。
昨日までの透なら、どちらかを選ぼうとしていたかもしれない。
記録は信用できる。
あるいは、記録は信用できない。
今は、その二つを同時に考えられるようになっていた。
話が終わり、三人が散っていく。
そのうち一人が、透の横を通り過ぎるときに言った。
「結局、面倒になったな」
透は振り返った。
「そうですね」
男は笑った。
「前なら、もっと簡単だったんだけどな」
「前は?」
「誰かが悪いことにして、終わり」
男はそれだけ言って歩いていった。
彼女が小さく笑った。
「正直だね」
「うん」
「でも、それも嘘だったかもしれない」
透も笑った。
「そうかもしれない」
その日の夕方、新しい紙が壁に貼られた。
《緊急時の食料移動について》
短い規則だった。
誰が決めるのか。
何を記録するのか。
どこまで許されるのか。
すべては書かれていなかった。
けれど、何もないよりは少しだけ多く書かれていた。
人はルールを作る。
そして、ルールでは決められないことにまた出会う。
透はその紙を見上げた。
社会というものは、もしかすると、その繰り返しなのかもしれない。
完璧な決まりを作ることではなく。
決まりでは足りなかった場所を、誰かが後から埋めていくこと。
その途中で、誰かが嘘をつくこともある。
誰かが黙ることもある。
誰かが間違えることもある。
それでも、明日のために新しい紙が貼られる。
透は壁から目を離し、夕暮れの道へ歩き出した。
その紙を誰が最初に破るのか。
まだ、誰にも分からなかった。




