第256章 言えなかった理由
翌朝、配給所の前には、いつもより早く人が集まっていた。
昨日の不足について、誰かが話したらしい。
「今日は少ないって本当?」
「豆が減るらしい」
「誰かが持っていったんだって」
「盗んだの?」
「知らない」
列の中で、言葉が少しずつ形を変えていく。
最初は、
「昨日、四袋足りなかった」
だった。
それが、
「誰かが四袋持っていった」
になり、
いつの間にか、
「誰かが食料を盗んだ」
になっていた。
透は列の後ろに立ちながら、それを聞いていた。
彼女が隣で言った。
「もう変わってるね」
「うん」
「昨日の話と全然違う」
「うん」
しばらくすると、一人の老人が前の人に尋ねた。
「誰が盗んだんだ?」
「知らない」
「でも、盗んだんだろ?」
「そう聞いた」
「誰から?」
「分からない」
老人は首をかしげた。
「じゃあ、誰も知らないじゃないか」
それを聞いて、何人かが笑った。
しかし、噂は止まらなかった。
配給が始まると、係の女性が説明した。
「今日は一人分の量を少し調整します」
列から不満の声が上がった。
「どうして?」
「昨日の搬入数と記録が一致していないためです」
「誰かが盗んだの?」
女性は少し間を置いた。
「まだ確認できていません」
「じゃあ、なんで私たちが減らされるの?」
誰も答えなかった。
別の人が言った。
「盗んだ人を探せばいいじゃない」
「確認しています」
「確認じゃなくて、探せばいいでしょう」
声が大きくなった。
そのとき、昨日の男性が列の中から出てきた。
「盗んだんじゃありません」
全員が彼を見た。
男性は少し顔を赤くしていた。
「昨日、避難所に持っていった分があります」
「あなたが?」
「はい」
「じゃあ、どうして昨日言わなかったの?」
男性は黙った。
しばらくして答えた。
「言ったら、持っていったことを問題にされると思ったからです」
「当然でしょう」
誰かが言った。
「勝手に持っていったんだから」
男性は何も言わなかった。
係の女性が口を挟んだ。
「待ってください」
列が静かになる。
「彼が持っていったのは、昨日、避難所の食料が足りなかったからです」
「だからって、こっちから持っていっていいの?」
「それは、今確認しています」
「でも、こっちの人も困るでしょう」
「はい」
「じゃあ、結局、誰が悪いの?」
その質問に、誰も答えなかった。
透も答えなかった。
昨日までは、こういう場面を見ると、答えを探した。
今は、答えを急ぐこと自体が怖かった。
男性が小さな声で言った。
「すみません」
それだけだった。
すると、列の後ろから別の声がした。
「謝らなくていいんじゃない?」
全員が振り返った。
若い女性だった。
「昨日、うちも食料が足りなかったら、私も持っていってほしかったと思う」
「でも、今日は減らされる」
「うん」
女性は頷いた。
「だから、困る」
それから少し考えて言った。
「でも、昨日助かった人がいるなら、それも本当でしょう?」
誰も答えなかった。
二つの事実が、同時にそこにあった。
食料は足りなくなった。
誰かは助かった。
どちらか一方を消せば、話は簡単になる。
けれど、消すことはできない。
係の女性が深く息を吐いた。
「今日の分は、このまま配ります」
「明日は?」
「今日の記録を整理してから決めます」
「また減るかもしれない?」
「分かりません」
その答えに、不満そうな声が上がった。
しかし、女性は訂正しなかった。
「今は、本当に分からないので」
列が少しずつ動き始めた。
男性も食料を受け取った。
帰る前に、透のところで足を止めた。
「昨日のこと、聞いていましたよね」
「はい」
「……怒ってますか?」
透は少し考えた。
「分かりません」
男性は苦笑した。
「それ、困りますね」
「すみません」
「いや」
男性は首を振った。
「僕も、昨日までそうでしたから」
「何が?」
「自分が悪いのか、悪くないのか」
男性は袋を持ち直した。
「今でも、分かりません」
そう言って、歩いていった。
彼女が透を見る。
「また分からないだね」
「うん」
「でも、少し違う」
「何が?」
「前は、分からないから止まってた」
彼女は男性の背中を見た。
「今は、分からなくても歩いてる」
透は何も言わなかった。
列の先では、次の人の名前が呼ばれていた。
誰かが返事をする。
誰かは返事をしない。
誰かは本当のことを言う。
誰かは言わない。
そして、誰もが自分なりの理由を持っている。
透はその光景を見ながら、ふと思った。
嘘は、言葉だけで生まれるものではないのかもしれない。
誰かが言わなかったこと。
誰かが知らなかったこと。
誰かが勝手に想像したこと。
それらが重なっただけでも、人はいつの間にか、存在しなかった話を信じ始める。
それでも、人は今日の生活を続けていく。
透もまた、列の最後尾から一歩前へ進んだ。




