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嘘の向こう側  作者: 亀


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第255章 足りないもの

午後になると、配給所の空気が少し変わった。


朝から続いていた列が途切れ、代わりに何人かの管理担当者が集まっていた。


机の上には、いくつかの紙袋が並んでいる。


「足りません」


責任者の男が言った。


「何が?」


彼女が尋ねる。


「乾燥豆です。予定より十二袋少ない」


「十二袋?」


「はい」


男は帳簿を開いた。


「昨日の搬入記録では、百二十袋」


「配ったのは?」


「百八袋」


「残り十二袋は?」


「それがありません」


部屋の中が静かになった。


透は少し離れた場所にいた。


男は別の担当者を見た。


「倉庫は確認しましたか?」


「確認しました」


「別の場所に移した可能性は?」


「ありません」


「誰かが持ち出した?」


その言葉が出た瞬間、空気が重くなった。


一人の女性が言った。


「まだ、そうとは決まっていません」


男は彼女を見る。


「でも、数字が合わない」


「だから確認が必要なんでしょう」


「確認するためには、誰かが間違えた可能性も考えないといけない」


「それはそうですが……」


二人の会話を聞きながら、透は黙っていた。


十二袋。


昨日の二人分と比べれば、ずっと大きな数字だった。


そして、今度は誰か一人の事情だけでは済まない。


配給を受ける人が多い。


十二袋がなくなれば、その分だけ誰かの手に渡らない。


男が帳簿を閉じた。


「昨日の担当者は?」


「私です」


若い女性が手を挙げた。


「記録を確認します」


「お願いします」


女性は紙を受け取り、しばらく見ていた。


「ここです」


「何が?」


「搬入数が、最初の記録と違います」


「どういうこと?」


「最初は百十二袋と書かれていて、そのあと百二十に訂正されています」


男が紙を取り上げた。


「……本当だ」


「誰が訂正したんですか?」


別の人が尋ねた。


女性は紙の端を見た。


「名前があります」


「誰です?」


「分かりません」


「分からない?」


「字は読めます。でも、誰の字かまでは」


男がため息をついた。


「じゃあ、八袋の差ですね」


「はい」


「残り四袋は?」


誰も答えなかった。


しばらくして、別の男性が口を開いた。


「昨日、避難所のほうに持っていったんじゃないですか」


「記録は?」


「ありません」


「なぜ記録しなかった?」


男性は黙った。


「……急いでいたので」


責任者は彼を見た。


「それなら、今からでも書いてください」


「でも」


「何ですか?」


「避難所に持っていったことを記録すると、別のところから持ってきた理由まで説明しなければならなくなる」


「それは必要でしょう」


「分かっています」


男性は視線を落とした。


「でも、あのときは、向こうに食料がなかったんです」


部屋の中が静かになった。


「こっちの配給を止めてまで?」


「止めてはいません」


「でも、記録上はそう見える」


「だから書かなかったんです」


責任者は何か言いかけた。


しかし、途中で止めた。


「……誰かを助けるために、記録を残さなかった」


男性は頷いた。


「はい」


「それは、正しいと思いますか?」


男性はすぐには答えなかった。


「分かりません」


透はその言葉を聞いて、少しだけ顔を上げた。


昨日までなら、この場でもっと簡単な答えを探していたかもしれない。


記録を残すべきだった。


助けるべきだった。


どちらが正しいのか。


けれど、今は違った。


記録を残せば、次の配給を公平に計算できる。


記録を残さなければ、その場で助かる人がいる。


どちらにも理由がある。


そして、どちらにも別の誰かが困る可能性がある。


責任者が椅子に座った。


「四袋については、今日のところは保留にします」


「いいんですか?」


「今の情報だけでは判断できません」


その言葉を聞いて、透は少し意外に思った。


誰かを責めることもできた。


誰かに嘘をついたと言うこともできた。


けれど、責任者はそうしなかった。


「明日の配給には影響しますか?」


「少しだけ調整します」


「足りなくなる人が出ます」


「そうですね」


責任者は帳簿を閉じた。


「だから、明日は一人分ずつ減らします」


部屋の空気がまた重くなった。


誰かが助かった分だけ、別の誰かが少しずつ減らされる。


それは、誰か一人を責めれば解決する問題ではなかった。


透は窓の外を見た。


人々はまだ、何も知らずに歩いている。


明日、自分の袋が少し軽くなることを知らない。


そして、その理由も知らないままかもしれない。


彼女が隣で小さく言った。


「こういうの、嫌だね」


「うん」


「誰かが嘘をついたから、全部おかしくなったわけじゃない」


「うん」


「でも、誰かが言わなかったことが、別の誰かに影響する」


透は黙っていた。


しばらくして、彼女が聞いた。


「それでも、言わないほうがいいことってあると思う?」


透は窓の外を見たまま答えた。


「あると思う」


「どうして?」


「言うことで助かる人もいるけど、困る人もいるから」


「じゃあ、どうやって決めるの?」


透は少し考えた。


「……それを決めるのが、人なんじゃないかな」


彼女は何も言わなかった。


机の上には、訂正された数字が残っていた。


百十二。


百二十。


四袋。


十二袋。


数字は、少しずつ形を変えていく。


けれど、その数字の向こう側にいる人たちは、数字ほど簡単には変わらなかった。

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