第254章 呼ばれた人
名前を呼ばれても、誰も返事をしなかった。
係の女性は名簿を見直した。
「……もう一度呼びます」
彼女が声を上げる。
「佐藤さん」
列の後ろから、若い男が顔を出した。
「はい」
「こちらへお願いします」
男は受付まで歩いてきた。
年齢は透より少し上に見えた。
服は古かったが、きれいに洗われていた。
係の女性が名簿を確認する。
「佐藤さん、今日は一人ですか?」
「はい」
「前回は二人でしたね」
男の表情が少し変わった。
「そうでしたか」
「記録では、二人になっています」
男は名簿を見た。
「……そうなんですね」
「もう一人は?」
男は答えなかった。
受付の女性も、それ以上聞かなかった。
しばらくして、男が言った。
「名前だけ残ってるんです」
「名前?」
「はい」
男は名簿から目を離した。
「昔、ここに来ていた人です」
「家族ですか?」
「違います」
「友人?」
「それも違います」
女性が少し困った顔をした。
男は笑った。
「僕にも、よく分かりません」
透はその言葉を聞いて、顔を上げた。
「分からない?」
男は透を見た。
「はい」
「でも、名前は残っている」
「そうです」
「どうして?」
男は少し考えた。
「たぶん、誰かがそう書いたからです」
透は何も言わなかった。
男は続けた。
「僕がここへ来るようになったとき、名簿にはその名前がありました」
「自分の名前ではない?」
「違います」
「じゃあ、どうして消さなかったんですか?」
男は名簿を見た。
「消していいのか、分からなかったからです」
係の女性が静かに言った。
「それで、二人分になっていたんですね」
「たぶん」
「でも今日は一人分でいい?」
「はい」
「どうして?」
男は少し笑った。
「今日は、一人だからです」
その答えは簡単だった。
けれど、透には妙に重く聞こえた。
名簿に二人と書かれていたから二人。
名前が一つしかないから一人。
名前が残っているから、そこに誰かがいたことになる。
でも、本当にそうだったのかは分からない。
係の女性は一人分の食料を渡した。
男は受け取って、頭を下げた。
「ありがとうございました」
そのまま帰ろうとしたところで、彼女が声をかけた。
「佐藤さん」
男が振り返る。
「その名前、いつか消しますか?」
男は少し考えた。
「……分かりません」
「そうですか」
「でも」
男は名簿を見た。
「残しておいてもいいと思います」
「どうして?」
「消したら、本当に何も残らなくなる気がするので」
彼はそれだけ言って、外へ出ていった。
扉が閉まる。
しばらく誰も話さなかった。
彼女が言った。
「名前って、不思議だね」
「うん」
「本人がいなくても残る」
「うん」
「本人がいるのに、名前が違うこともある」
透は頷いた。
「名前があるから、その人がいるとは限らない」
「でも、名前がなかったら、いたことまで消えることがある」
「……そうだね」
彼女は机の上の名簿を指で軽く叩いた。
「じゃあ、記録って何なんだろう」
透はすぐには答えなかった。
以前なら、何か答えを探したかもしれない。
記録とは事実を残すもの。
名前とは人を識別するもの。
数字とは状況を表すもの。
そんなふうに、簡単に整理していたかもしれない。
けれど今は、少し違う。
「たぶん」
透はゆっくり言った。
「そのとき誰かが必要だと思ったものを残したものなんじゃないかな」
「事実じゃない?」
「事実の場合もあると思う」
「じゃあ、何が違うの?」
透は名簿を見た。
「残した人が、何を知らなかったかまでは書かれないから」
彼女は黙った。
名簿には、名前と人数しかない。
その人がなぜ来たのか。
誰を待っていたのか。
何を隠していたのか。
何を知らなかったのか。
何を恐れていたのか。
そこまでは書かれていない。
だから記録は、嘘ではない。
けれど、真実の全部でもない。
外では、また誰かが名前を呼んでいた。
今度はすぐに返事があった。
透はその声を聞きながら思った。
名前を呼ぶことは、誰かを見つけることではない。
ただ、誰かに届くかもしれない言葉を投げることなのかもしれない。
そして、その言葉に誰が答えるのか。
それもまた、その人自身が決めることだった。




