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嘘の向こう側  作者: 亀


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第253章 誰のための嘘

朝、配給所の前には、いつもより少し長い列ができていた。


昨日までなら、列の長さを見れば、おおよその人数を予想できた。


今日は、それができなかった。


受付の机の前で、係の女性が名簿をめくっている。


「この人、昨日も来ましたよね」


後ろにいた男が言った。


女性は顔を上げた。


「そうですね」


「じゃあ、今日も二人分ですか?」


「……分かりません」


男は少し黙った。


「分からない?」


「昨日は二人で受け取っています。でも、今日は一人かもしれません」


「家族が増えたんですか?」


「逆です」


女性は名簿を閉じた。


「一人、来なくなっただけです」


男は何か言おうとして、やめた。


そのまま列の後ろへ戻っていった。


透は少し離れたところから、そのやり取りを見ていた。


昨日までなら、理由を考えていたかもしれない。


誰が来なくなったのか。


なぜ来なくなったのか。


どこへ行ったのか。


けれど、今日は何も聞かなかった。


隣にいた彼女が、透を見た。


「聞かないんだ」


「うん」


「気にならない?」


「気になるよ」


「じゃあ、どうして?」


透は少し考えた。


「聞いたほうがいいことか、分からないから」


彼女は何も言わなかった。


やがて、列が少し進んだ。


そのとき、さっきの男がもう一度受付の前に戻ってきた。


「すみません」


「はい」


「二人分でお願いします」


係の女性が名簿を見る。


「今日は一人では?」


「……はい」


男は少し笑った。


「でも、二人分ください」


「理由を聞いてもいいですか?」


男は答えなかった。


その代わり、声を少し落とした。


「昨日の分を、持って帰ってないんです」


女性の手が止まった。


「昨日?」


「はい」


「どうして?」


男は周囲を見た。


「家では、二人いることになっているので」


透は顔を上げた。


男は続けた。


「一人分だけ持って帰ると、すぐ分かるんです」


「……」


「だから、二人分ください」


係の女性はしばらく男を見ていた。


そして、二人分の食料を袋に入れた。


「分かりました」


男は頭を下げた。


「ありがとうございます」


それだけ言って、列から離れていった。


彼女が小さく息を吐いた。


「嘘だね」


「うん」


「でも、聞かないんだ」


「うん」


「昨日の人と同じだね」


透は男の背中を見た。


「たぶん、違う」


「何が?」


「嘘の形は同じでも、理由は違うと思う」


彼女は少し笑った。


「じゃあ、今度は調べないの?」


「調べたら分かるかもしれない」


「それでも?」


「それでも」


透は答えた。


「分からないままのほうがいいこともあると思う」


彼女はしばらく黙っていた。


「前だったら、全部知ろうとしてた?」


「たぶん」


「今は?」


透は少し考えてから言った。


「知ることにも、責任がある気がする」


彼女は透を見た。


「責任?」


「知ったあと、何をするのかってこと」


「なるほど」


彼女はそれ以上聞かなかった。


昼過ぎ、受付の女性が休憩に入った。


透は机の上に残された名簿を見た。


そこには、二人分の配給を受け取ったという記録が残っていた。


名前は一つ。


人数だけが二つ。


その数字を見ていると、昨日のことを思い出した。


二人だった。


今は一人。


記録だけなら、それで終わる。


けれど、数字の後ろには、数字にならないものがある。


誰かを隠しているのかもしれない。


誰かを守っているのかもしれない。


誰かに知られたくない事情があるのかもしれない。


あるいは、本当に二人いるのかもしれない。


透は名簿から目を離した。


そのとき、休憩から戻ってきた係の女性が言った。


「それ、見てたんですか?」


「少しだけ」


「気になります?」


「はい」


女性は笑った。


「私もです」


「じゃあ、調べますか?」


「いいえ」


意外な答えだった。


透が見ると、女性は椅子に座った。


「調べれば、たぶん何か分かります」


「はい」


「でも、分かったら、今度は私が何かしなければならなくなるでしょう」


透は黙った。


女性は名簿を閉じた。


「今は、配る仕事だけで精一杯なんです」


窓の外では、列がまた伸びていた。


「だから、今日のところは二人分を渡した。それだけです」


透はその言葉を聞いて、しばらく何も言わなかった。


彼女が隣で言った。


「それも一つの選択だね」


「うん」


「正しいかどうかは?」


透は窓の外を見た。


「分からない」


彼女は笑った。


「最近、そればっかりだね」


「そうかもしれない」


「でも、前より嫌そうじゃない」


透は少し考えた。


そして、静かに笑った。


「うん」


以前は、分からないことが怖かった。


今も怖い。


ただ、分からないことを無理に一つの答えにすることも、同じくらい怖いのだと、少しずつ分かってきた。


受付の向こうで、誰かがまた名前を呼んだ。


その名前に、誰も答えなかった。


けれど、係の女性はもう一度呼んだ。


今度は少しだけ声を大きくして。


透は振り返った。


誰が来るのかは、まだ分からなかった。

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