第252章 言わなかったこと
昼過ぎ、配給所の前に一人の女性が立っていた。
三十代の半ばくらいに見えた。
手には小さな布袋を持っている。
受付の男が顔を上げた。
「今日はどうしました?」
女性は少し迷ってから、袋を机の上に置いた。
「これを、返しに来ました」
「返す?」
「昨日、もらったものです」
袋の中には、乾燥した豆と少量の粉、それから小さな缶詰が入っていた。
受付の男は記録を確認した。
「昨日、二人分を受け取っていますね」
「はい」
「今日は一人分しかいない?」
女性は答えなかった。
受付の男も、それ以上は聞かなかった。
隣で作業をしていた透が、袋を見た。
「余ったんですか?」
女性は透のほうを見た。
「……そういうことにしておきます」
その言い方が少し気になった。
けれど、透は何も言わなかった。
受付の男が袋を受け取る。
「では、こちらで記録しておきます」
女性は小さく頭を下げた。
「お願いします」
そして、帰ろうとした。
そのとき、後ろから別の女性が声をかけた。
「待って」
昨日、配給所で働いていた女だった。
「これ、返さなくてもいいですよ」
帰ろうとしていた女性が振り向いた。
「でも、私には必要ありませんから」
「必要ない?」
「はい」
「本当に?」
女性は少し笑った。
「本当に」
それだけ言って、今度こそ外へ出ていった。
透はしばらく入口を見ていた。
隣の女性が言った。
「たぶん、誰かに渡すんでしょうね」
「誰かに?」
「家族とか」
「でも、必要ないって言ってました」
「だからでしょう」
透は意味が分からなかった。
女性は作業に戻りながら言った。
「必要だと言ったら、返してもらえないと思ったのかもしれません」
透は袋を見た。
「……それも、嘘ですよね」
「そうかもしれません」
「じゃあ、どうして何も聞かなかったんですか?」
女性は手を止めた。
「聞いてほしくなさそうだったから」
「でも、本当は困っているかもしれない」
「そうですね」
「それなら、聞いたほうがよかったんじゃないですか」
女性は少し考えた。
「そうかもしれません」
それから、透を見た。
「でも、聞かないほうがいいこともありますよ」
透は黙った。
女性は袋を棚に置いた。
「人には、言わないことで守れるものもありますから」
「……守れるもの?」
「自分のことだったり、家族のことだったり」
透は返事をしなかった。
しばらくして、受付の男が記録を書き終えた。
「二人分、返却。一人分、未使用」
女性が記録を覗き込む。
「それでいいと思います」
透は紙を見た。
そこには、昨日の人数と今日の人数が並んでいた。
数字だけなら、何もおかしくない。
誰かが二人分受け取り、一人分を返した。
ただ、それだけだった。
けれど、その数字の向こうには、誰にも書かれていない事情がある。
誰かが病気なのかもしれない。
誰かが食べられないのかもしれない。
誰かが別の場所にいるのかもしれない。
あるいは、もう戻ってこないのかもしれない。
透はそこで考えるのをやめた。
全部を知る必要はない。
そう思ったからだった。
その日の夕方、配給所を閉める前に、昨日の女性がもう一度戻ってきた。
今度は一人だった。
受付の男が顔を上げる。
「どうしました?」
女性は小さな紙を差し出した。
「これだけ、訂正してもらえますか」
紙には昨日の受取人数が書かれていた。
二人。
その数字に線が引かれていた。
その下に、一人と書き直されている。
受付の男が眉を寄せる。
「昨日は二人分でしたよね?」
「はい」
「でも、今は一人?」
「はい」
「誰か一人、別の場所へ?」
女性は答えなかった。
少ししてから言った。
「昨日の時点では、二人だったんです」
「だった?」
女性は紙を見つめた。
「今は、一人です」
受付の男は、それ以上聞かなかった。
訂正された数字を記録に写した。
透は少し離れたところから、その様子を見ていた。
女性は紙を受け取ると、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます」
そして帰っていった。
透は受付の男に近づいた。
「どうして聞かなかったんですか」
男はペンを置いた。
「何を?」
「誰がいなくなったのか」
男は少しだけ笑った。
「知りたいですか?」
透は答えられなかった。
「私も、知りたいですよ」
男は記録を閉じた。
「でも、本人が言わないことを、私が勝手に記録に残す必要はないでしょう」
「……そうですね」
「それに」
男は入口のほうを見た。
「明日になれば、また変わるかもしれません」
透はその言葉を聞いて、昨日の記録を思い出した。
記録は残る。
けれど、人はその記録の中に書かれた数字ほど簡単ではない。
夜になって、透は帰り道を歩いていた。
隣を歩く彼女が言った。
「今日は、あまり聞かなかったね」
「うん」
「前なら聞いてた?」
透は少し考えた。
「たぶん」
「どうして聞かなかったの?」
透は歩きながら答えた。
「聞けば分かると思ってたから」
彼女は何も言わなかった。
「でも、聞いても言わない人はいるし」
「いるね」
「言ってくれても、それが全部本当とは限らない」
「そうだね」
「だから……」
透はそこで言葉を止めた。
彼女が振り向く。
「だから?」
「分からないままでもいい場合があるのかなって」
彼女は少し笑った。
「やっと気づいた?」
「……前から気づいてたよ」
「そう?」
「たぶん」
彼女はそれ以上追及しなかった。
二人はそのまま歩いた。
街の明かりは少しずつ増えていた。
誰かが何かを隠している。
誰かが何かを守っている。
その二つは、外から見ただけでは区別できない。
そして、その区別をつけることが、いつも正しいとも限らなかった。
透は前を見た。
知らないことが残っている。
それでも、今日はそれをそのままにして歩くことにした。




