第250章 別の記録
翌朝、透が会社に着くと、昨日の封筒はまだ引き出しの中にあった。
誰も触れていない。
透はそれを確認しただけで、引き出しを閉めた。
午前の仕事が始まってしばらくすると、管理担当の男が倉庫へ入ってきた。
「昨日の古い記録、見た人いる?」
「古い記録?」
「四、五年前のやつ。物資の受け取りとか、人の出入りとか」
近くにいた同僚が首を振った。
「昨日、整理してた箱ならあるけど」
「それじゃない。もっと古いやつ」
男は少し考えてから、倉庫の奥へ歩いていった。
透も作業の手を止めずに、その声を聞いていた。
しばらくすると、男が一冊の薄いファイルを持って戻ってきた。
表紙には日付だけが書かれている。
名前はない。
「これ?」
「たぶん、それ」
男はページをめくった。
中には、当時の物資の配布記録や簡単な連絡事項が並んでいた。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
そして途中で、男の手が止まった。
「……これ、誰が書いたんだ?」
同僚が覗き込む。
「知らない」
「字が違うな」
「途中から?」
「うん」
透も少しだけ近づいた。
同じ日の記録なのに、途中から筆跡が変わっていた。
内容も少し違っている。
前半には、
「受け取り人数、二十八名」
と書かれている。
後半には、
「確認人数、二十九名」
と書かれていた。
「一人違うね」
同僚が言った。
「記入ミスじゃない?」
「かもしれない」
管理担当の男はページをめくった。
次のページには、二十九名と書かれている。
その次は二十八名。
さらに次は三十名。
数字が少しずつ揺れていた。
「この時期、記録がかなり乱れてるな」
男はそう言ってファイルを閉じた。
「あとで確認する」
誰も何も言わなかった。
昼休みになった。
透は食堂の端で弁当を食べていた。
向かいの席に、朝からファイルを見ていた管理担当の男が座った。
「昨日の封筒、まだある?」
「あるよ」
「もし宛先が確認できたら、渡しておいて」
「分かった」
男は少し黙った。
「……あの名前さ」
「うん」
「昔の記録にも出てくるんだよ」
透は箸を止めた。
「同じ人?」
「分からない」
男は笑った。
「だから困ってる」
それ以上は話さなかった。
午後、透は倉庫で別の箱を整理していた。
古い資料の中から、一枚の紙が落ちた。
拾い上げる。
そこには短い文章が書かれていた。
『この記録だけでは判断しないこと。』
透は少し眺めた。
誰が書いたのかは分からない。
日付もない。
その下には、別の筆跡で一行だけ書かれていた。
『別の記録と照合してください。』
透は紙を裏返した。
何もない。
その紙を捨てることもできた。
だが、なぜかそのままファイルに戻した。
夕方、仕事が終わる頃、管理担当の男が再びやってきた。
「透」
「はい」
「これ、見覚えある?」
男が一枚のコピーを差し出した。
古い名簿だった。
そこには、例の名前があった。
だが、その横に小さく、
「本人確認済み」
と書かれている。
透はその文字を見た。
「本人だったんですね」
「それが分からないんだよ」
男は答えた。
「本人確認済みって書いてあるのに、確認した人の名前がない」
「……」
「だから、確認したという記録だけが残ってる」
透は名簿を返した。
「別の記録は?」
「探してる」
男はそう言って去っていった。
帰りの駅で、透は彼女に会った。
「今日は早いね」
「うん」
彼女は隣に座った。
「仕事は?」
「普通」
「また?」
「うん」
彼女は少し笑った。
「最近、本当にそればっかりだね」
透も笑った。
「そっちは?」
「今日は少し面倒だった」
「聞いていい?」
「今はいい」
「分かった」
それだけで会話は終わった。
しばらくして、彼女が言った。
「ねえ」
「うん」
「昔のことって、どこまで信じる?」
透は少し考えた。
「記録があれば?」
「記録があっても」
「……分からない」
「私も」
彼女は窓の外を見た。
「でも、何も残ってないよりはいいよね」
「そうだね」
電車が駅を出た。
窓の向こうに、夜の街が流れていく。
古い建物。
新しく修理された道路。
閉まった店。
明かりのついた部屋。
昨日まで知らなかった人たちが、今日もどこかで生活している。
透は昼間の紙を思い出した。
『この記録だけでは判断しないこと。』
その言葉が、なぜか頭に残っていた。
その夜、会社の引き出しを開けると、封筒はまだそこにあった。
透は封筒を手に取った。
開けることはしなかった。
ただ、表に書かれた名前をもう一度見た。
同じ名前。
同じ文字。
けれど、それだけでは同じ人間だとは言えない。
透は封筒を戻した。
引き出しを閉める。
そのとき、ふと考えた。
もし誰かが昔の記録を見つけたとして。
そこに自分の名前が書かれていたとして。
その記録だけで、自分がそこにいたことを証明できるのだろうか。
答えは出なかった。
翌朝。
誰もいない会社の倉庫で、管理担当の男が古いファイルを開いていた。
昨日の記録のさらに下から、一枚の薄い紙が出てきた。
そこには、人の名前も日付もなかった。
ただ一行だけ。
『調査結果は、一つにまとめないこと。』
男はしばらくその紙を見つめた。
そして、何も言わずにファイルへ戻した。




