第249章 残された封筒
翌朝、封筒はまだ引き出しの中にあった。
透は出勤してすぐ、そのことを思い出した。
昨日、管理を頼まれた封筒だった。
宛先には、あの名前が書かれている。
だが、その名前の人物が、本当に誰なのかは分からない。
同じ名前を持つ人間はいる。
古い名簿にも、その名前は残っている。
けれど、記録にある人物と、先日まで一緒に働いていた男が同一人物なのかどうかは、誰にも確認できていなかった。
透は引き出しを開けた。
封筒は、そのままだった。
少しだけ角が折れている。
それ以外には、変わったところはない。
「まだあるんだ」
後ろから声がした。
振り返ると、同僚が立っていた。
「うん。昨日から」
「開けてない?」
「開けてないよ」
「そうだよな」
同僚はそれだけ言って、自分の席へ戻っていった。
透も封筒を見つめた。
中身を確認すれば、何か分かるかもしれない。
そう思った。
しかし、同時に、それを開けていい理由もなかった。
宛先が誰なのか分からない。
送り主も分からない。
それでも封筒は、誰かに届けられるためにここにある。
透は引き出しを閉めた。
午前中の仕事は、いつもと大きく変わらなかった。
部品を運び、数量を確認し、作業が終わったものを所定の場所へ移す。
昼前、倉庫の奥で古い箱が見つかった。
「これ、まだ使う?」
同僚が箱を開けた。
中には古い工具が何本か入っていた。
「分からないな」
「誰かに聞く?」
「聞いても分からないかもしれない」
二人で少し考えた。
結局、箱を一度そのまま置いておくことになった。
午後になって、別の部署から人が来た。
「あ、その箱」
男は箱を見るなり言った。
「それ、前に探してたやつかもしれない」
「使うもの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「昔使ってたから。今も使えるかは分からない」
箱の中から一本取り出す。
男は手に取って、少し眺めた。
「これなら使える」
そう言って、一本だけ持っていった。
残りは箱に戻された。
透はその様子を見ていた。
昨日まで必要かどうか分からなかったものが、今日は誰かにとって必要になっている。
それだけのことだった。
夕方、仕事が終わるころ、スマートフォンにメッセージが届いた。
彼女からだった。
『今日、少し遅くなる』
透はすぐに返信した。
『分かった。無理しないで』
送信してから、少し考えた。
以前なら、
『何かあった?』
と聞いていたかもしれない。
今も気にはなる。
けれど、聞かなければならない理由はなかった。
しばらくして、返信が来た。
『ありがとう』
それだけだった。
透はスマートフォンをポケットに入れた。
駅へ向かう途中、昨日の封筒のことを思い出した。
そして、あの名前を探していた女の人のことも思い出した。
彼女は言っていた。
探している人が本当にその人なのか、もう分からない。
それでも、探していたことまで嘘になるわけではない。
透は駅のベンチに座った。
目の前を人が通り過ぎていく。
知らない人。
知っているようで知らない人。
名前だけ知っている人。
名前さえ知らない人。
それぞれが、自分の生活を持っている。
そのとき、少し離れたところから声が聞こえた。
「それ、前にも言ったよね」
「言った?」
「言ったよ」
「ごめん。覚えてない」
二人の会話は、それ以上続かなかった。
透は顔を上げた。
どちらが本当のことを言っているのかは分からない。
言ったのかもしれない。
言っていないのかもしれない。
あるいは、言ったけれど、二人が覚えている内容が違うのかもしれない。
透は考えた。
以前なら、どちらが嘘をついているのかを考えただろう。
今は、少し違った。
「……違う話をしているだけかもしれない」
小さく呟いた。
もちろん、それも正しいとは限らない。
ただ、それ以外の可能性も残しておきたかった。
電車が来た。
透は立ち上がった。
帰り道、彼女からもう一度メッセージが届いた。
『今から帰る』
透は、
『気をつけて』
とだけ返した。
その夜、会社の引き出しの中には、まだ封筒が残っていた。
誰かに届くはずだったもの。
誰かが待っているかもしれないもの。
けれど、まだ誰にも渡せない。
透は眠る前に、ふと思った。
名前が分からなくても、誰かはいる。
名前が分かっても、その人が誰なのかは分からない。
記録が残っていても、それがすべてとは限らない。
そして、分からないまま残っているものを、すぐに埋める必要もない。
透は灯りを消した。
明日になれば、封筒の宛先を確認できるかもしれない。
あるいは、確認できないかもしれない。
どちらでもよかった。
少なくとも今夜は、まだ何も決めなくてよかった。




