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嘘の向こう側  作者: 亀


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第248章 呼ばれなかった名前

水曜日の朝。


昨日の男は、職場に来なかった。


担当者に聞いても、


「今日は休みだそうです」


それだけだった。


理由は分からない。


透は少し気になったが、仕事を始めた。


午前中、倉庫の整理をしていると、古い箱の底から一枚の紙が出てきた。


以前使われていた作業員名簿だった。


名前と配属先、それから簡単な備考だけが並んでいる。


透は何気なく目を通した。


その中に、昨日の男と同じ名前があった。


ただし、年代が違う。


かなり古い記録だった。


「また同じ名前だ」


透は小さく呟いた。


隣にいた社員が紙を覗き込んだ。


「知ってる人?」


「分かりません」


「じゃあ、同じ名前の人じゃない?」


「たぶん」


社員は笑った。


「最近、そればっかりだな」


透も笑った。


「そうですね」


その日の昼休み、管理部から人が来た。


「昨日の人について、何か聞いてませんか?」


「特には」


「そうですか」


管理部の人は少し困った顔をした。


「登録されていた名前と、以前の記録にある名前が一致しているんですが、本人確認がまだできていないんです」


「本人じゃない可能性もあるんですか?」


「あります」


「でも、昨日は働いていましたよね」


「働いていました」


「じゃあ、問題ないんじゃないですか?」


管理部の人は答えなかった。


少ししてから、


「仕事をしていることと、記録上の本人であることは別なので」


と言った。


透は昨日の男の言葉を思い出した。


名前は、呼ばれるだけなら問題ない。


そんな話だった。


夕方。


透が帰ろうとしていると、受付から声をかけられた。


「朝倉さん、これ」


渡されたのは、小さな封筒だった。


宛名には、昨日の男の名前が書かれている。


「預かってもらえますか?」


「僕が?」


「明日来たら渡してください」


透は封筒を受け取った。


差出人の名前はなかった。


「誰からですか?」


「分かりません」


「いつ届いたんですか?」


「昼過ぎです」


透は封筒を見た。


「中身は?」


「開けていません」


「そうですよね」


透は封筒を机の引き出しに入れた。


翌日になれば、本人に渡せばいい。


それだけのことだった。


駅に向かう途中、彼女から電話が来た。


「今日、少し変なことがあった」


「何?」


「前に話していた人の名前を、別の人が知ってた」


「探している人?」


「そう。でも、その人は本人を知らないって言ってた」


「名前だけ?」


「うん」


彼女は少し黙った。


「ねえ、透」


「うん」


「名前って、誰かが知ってるだけでも残るのかな」


透は答えを考えた。


「分からない」


「またそれ?」


「でも、本当に分からないから」


彼女は笑った。


「最近、そういう答えに慣れてきた」


「悪い意味?」


「違うよ」


少し間があった。


「前は、分からないって言われると、答えから逃げてる気がしてた」


「今は?」


「分からないことを分からないままにしておくのも、選択なんだと思う」


透は黙って聞いていた。


「でもね」


彼女が続けた。


「名前を知らない人でも、誰かを探すことはできるんだよね」


「どうして?」


「分からない」


二人とも笑った。


電話を切ったあと、透は駅前の掲示板を見た。


古い掲示物の一部が剥がれていた。


その下から、以前の紙が少しだけ見えている。


名前。


日付。


住所。


連絡先。


誰かが書いた情報。


誰かが残した情報。


そして、その情報を誰かが信じている。


透は少しだけ立ち止まった。


それから、何も剥がさず、そのまま駅へ向かった。


翌朝。


職場の机の引き出しには、昨日の封筒が残っていた。


まだ、宛名の人物は来ていない。


そしてその日の午後、管理部から新しい連絡が入った。


「昨日の人、しばらく来ないそうです」


「理由は?」


「聞いていません」


「いつ戻るんですか?」


「分かりません」


透は引き出しの中の封筒を思い出した。


けれど、取り出さなかった。


名前が書いてある。


それだけでは、届ける相手を確かめたことにはならない。


だから今は、そこに置いておくことにした。


封筒の中に何が入っているのか。


それも、まだ知らないままでよかった。

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