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嘘の向こう側  作者: 亀


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第247章 呼ばれた名前

火曜日の朝。


透が職場に着くと、昨日の男はもう来ていた。


作業台の前で、古い部品を一つずつ並べている。


昨日と同じ場所だった。


「おはようございます」


透が声をかけると、男は振り返った。


「おはようございます」


昨日と同じ返事だった。


ただ、今日は胸元に小さな名札がついていた。


透は一瞬だけ目を向けた。


昨日、書類に書かれていた名前と同じだった。


「名前、付けたんですね」


「はい」


男は名札に触れた。


「昨日、登録の人に言われました」


「嫌じゃなかったですか?」


「別に」


男は少し考えた。


「呼ばれるだけなら」


透はそれ以上聞かなかった。


午前中は忙しかった。


倉庫から運ばれてきた古い部品を確認し、使えるものと廃棄するものを分ける。


男は昨日よりも少し口数が多かった。


「これは使えます」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんなんですね」


「古いものですから」


男は笑った。


「使えると思って使えなかったら困るでしょう」


「じゃあ、確認してからにします」


「それがいいです」


二人で部品を確認した。


結果として、男が「使える」と言ったもののうち、一つは壊れていた。


「外れましたね」


透が言うと、男は肩をすくめた。


「古いものだから」


「怒らないんですね」


「誰に?」


「自分に」


男は少し考えた。


「間違えることと、無責任なことは同じじゃないでしょう」


透はその言葉を聞いて、手を止めた。


男は壊れた部品を箱に戻した。


「確認しなかったのは、自分の判断です」


「じゃあ、次から確認する?」


「そうします」


それだけだった。


昼休み。


昨日とは違う社員が、男の向かいに座った。


「昨日の名前、違うって聞いたけど」


男は箸を止めた。


「違うとは言ってません」


「でも、自分の名前じゃないんでしょう?」


「そういう時期もありました」


「どういう意味?」


男は少し笑った。


「長く生きてると、名前の呼ばれ方も変わりますよ」


社員は納得したような、納得していないような顔をした。


「じゃあ、本当の名前は?」


「ありますよ」


「何?」


男は答えなかった。


「言いたくない?」


「今は必要ないと思います」


社員はそれ以上聞かなかった。


午後。


管理部から連絡が来た。


昨日の男について、登録情報の確認が必要になったらしい。


男は管理部へ行った。


一時間ほどして戻ってきた。


名札は外されていた。


「どうしたんですか?」


透が聞いた。


「名前が確認できないそうです」


「昨日は登録できたのに?」


「昨日の記録と、今日確認した記録が違っていました」


「どっちが正しいんですか?」


男は少し笑った。


「それを確認しているところです」


透は何も言わなかった。


夕方、男は帰る前に、名札を机の上に置いた。


名前だけが書かれている。


透はそれを見た。


その名前は、古い配給所の台帳にもあった。


同じ名前。


けれど、それだけだった。


本人なのか。


別人なのか。


たまたま同じ名前なのか。


それを確認する材料はなかった。


男は名札を見て、少しだけ黙った。


「昔、この名前で呼ばれていたことがあります」


「今も?」


「分かりません」


「じゃあ、どうして使ったんですか?」


「呼ばれたからです」


透はその答えを聞いて、少し考えた。


名前は、自分で決めるものだと思っていた。


けれど、誰かに呼ばれることで初めて名前になるものもある。


そして、何度も呼ばれているうちに、自分でもそれを自分の名前だと思うようになる。


それが本当の名前なのかどうか。


透には分からなかった。


男は名札をポケットに入れた。


「明日も来ます」


「名前は?」


「まだ分かりません」


「そうですか」


男は笑った。


「でも、仕事はできますから」


「それなら、大丈夫ですね」


「たぶん」


二人は笑った。


帰り道、透のスマートフォンに彼女からメッセージが届いた。


『今日は会わなかった』


透は少し考えてから返信した。


『そうなんだ』


しばらくして返事が来た。


『うん。会わなくても、探していたことはなくならないけど』


透は画面を見た。


そして、


『そうだね』


と返した。


駅前では、誰かが誰かの名前を呼んでいた。


呼ばれた人が振り返った。


その人が本当にその名前の人なのか。


そんなことを確かめる人はいなかった。


ただ、呼ばれた人は振り返った。


それだけで、その瞬間には十分だった。

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