第246章 名前を使わない人
翌週の月曜日。
透の職場に、一人の男が来た。
年齢は三十代の後半くらいだった。
作業服ではなく、古い上着を着ている。
受付で誰かと話していたが、少しすると、透のいる作業場まで案内されてきた。
「今日から、こちらの整理を手伝ってもらいます」
担当者がそう言った。
男は軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「名前は?」
近くにいた社員が聞いた。
男は一瞬だけ黙った。
「名前は、なくても大丈夫です」
「え?」
社員が笑った。
「いや、そういうわけにはいかないでしょう」
「必要なら、番号で呼んでください」
男は胸元から小さな紙を出した。
そこには数字だけが書かれていた。
社員は困った顔をした。
「登録上は名前が必要なんですけど」
「それなら、登録されている名前を使ってください」
「あなたの名前じゃないんですか?」
男は少し考えた。
「昔は、そう呼ばれていました」
それ以上は説明しなかった。
結局、書類には一つの名前が記入された。
男はその名前を否定しなかった。
ただ、自分から名乗ることもしなかった。
午前中、透と男は古い部品を仕分けた。
男は作業が早かった。
部品を手に取ると、使えるものと使えないものをほとんど迷わず分けていく。
「詳しいですね」
透が言った。
「昔、似たような仕事をしていました」
「同じ会社ですか?」
「違います」
「じゃあ、どこで?」
男は笑った。
「覚えていません」
透はそれ以上聞かなかった。
昼休みになった。
男は一人で弁当を食べていた。
透が少し離れた場所で食べていると、別の社員がやってきた。
「あの人、変わってるよな」
「そうですか?」
「名前を言わないんだって」
「そうなんですか」
「何か事情があるんじゃない?」
「かもしれません」
社員は少し笑った。
「朝倉さん、最近そういう返事多いよな」
「そうですか?」
「前なら、もう少し気にしてただろ」
透は弁当を見ながら考えた。
「たぶん」
「またそれか」
二人で笑った。
午後になると、男は一度だけ受付に呼ばれた。
戻ってきたとき、顔色が少し変わっていた。
透は気づいた。
だが、何も聞かなかった。
男のほうから口を開いた。
「登録の名前を変えたいと言われました」
「変えるんですか?」
「分かりません」
「そうですか」
男は作業台の上に部品を置いた。
「名前って、便利ですよね」
「便利?」
「呼ぶだけで、その人がいることにできますから」
透は男を見た。
「逆もありますけどね」
「逆?」
「名前があっても、その人のことを何も知らないことがあります」
男は少しだけ笑った。
「そうですね」
作業が終わる頃、男は一枚の紙を透に渡した。
「これ、捨ててもいいですか」
紙には古い住所が書かれていた。
「自分のですか?」
「たぶん」
透は紙を見た。
住所は今では存在しない地域だった。
建物も、道路も、もう変わっているかもしれない。
「どうして持っていたんですか?」
「昔、必要だったからです」
「今は?」
「必要じゃなくなりました」
透は紙を返した。
男はそれを折り、ポケットにしまった。
「捨てないんですか?」
「まだ決めてません」
そう言って、男は帰っていった。
夕方。
透が駅へ向かっていると、彼女から電話が来た。
「今、話せる?」
「うん」
「この前の人のことなんだけど」
「探してた人?」
「そう」
彼女は少し黙った。
「今日、連絡が来た」
「本人から?」
「分からない」
「名前は?」
「同じ名前だった」
透は黙った。
「でもね」
彼女が言った。
「私は、もう名前だけでは判断しないことにした」
「どうするの?」
「会うかどうか、自分で決める」
透は少し笑った。
「それがいいと思う」
「本当に?」
「うん」
「もし間違ってたら?」
透はすぐには答えなかった。
駅の階段を下りながら、少し考えた。
「そのときは、間違ってたって分かったことになる」
電話の向こうで、彼女が笑った。
「それ、慰めになってないよ」
「ごめん」
「でも、そういうところは嫌いじゃない」
電話が切れた。
透は駅のホームで電車を待った。
今日会った男の名前を、もう一度思い出そうとした。
けれど、思い出せなかった。
書類に書かれていた名前は覚えている。
それでも、本人がその名前を自分のものだと思っているのかは分からない。
透は、それ以上考えなかった。
電車が来た。
扉が開く。
人が乗り、人が降りる。
名前を呼ばれる人もいれば、名前を呼ばれない人もいる。
それでも、人はそれぞれの一日を終えて、家へ帰っていった。




