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嘘の向こう側  作者: 亀


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第245章 同じ名前の人

翌朝、配給所の管理人は、古い台帳を机の上に広げたまま、しばらく動かなかった。


昨夜見つかった二つの記述。


「本人受領」


そのすぐ下に、別の筆跡で書かれた、


「本人ではない」


どちらが正しいのか。


それを確かめる方法は、今のところなかった。


管理人は台帳を閉じた。


そして、いつもの時間になると、配給所の扉を開けた。


「今日は乾物と電池があります。医薬品は、必要な方だけ声をかけてください」


人が少しずつ集まってきた。


昨日までなら、管理人は名前を確認することにそれほど時間をかけなかった。


今日は違った。


受け取りの記録を書くたびに、名前を一度見てしまう。


住所。


年齢。


受け取ったもの。


その人が書いた文字。


一つ一つは、どれも普通だった。


午前の終わり頃、一人の男が台帳の前で立ち止まった。


「これ、前からこういう書き方でした?」


管理人が顔を上げた。


男は台帳を指差していた。


「何がですか」


「名前です。同じ名前が何回も出てくるから」


管理人は少し迷った。


「珍しい名前じゃないですよ」


「そうですか」


男はそれ以上言わなかった。


ただ、台帳を見る目だけが少し長く残った。


「あなた、その名前の人を知ってるんですか」


管理人が聞くと、男は首を横に振った。


「知りません」


「じゃあ、どうして気になったんです?」


「昔、同じ名前の人と働いていたことがあります」


「同じ人かもしれませんね」


「分かりません」


男は笑った。


「名前が同じだけですから」


それだけ言って、乾物を一袋受け取った。


管理人は、その背中を見送った。


同じ名前。


同じ名前の人間が、何人いても不思議ではない。


それなのに、昨日からその言葉が妙に引っかかっていた。


昼過ぎ、朝倉透が配給所に立ち寄った。


「こんにちは」


「こんにちは」


管理人は、いつもより少し疲れているように見えた。


透はそれに気づいたが、理由は聞かなかった。


「今日は何かありますか」


「乾物が少し。それと古い電池」


「じゃあ、電池を一つ」


管理人は電池を渡した。


透は受け取りながら、机の上に置かれている台帳を見た。


「まだ調べてるんですか」


「少しだけ」


「名前のこと?」


管理人は頷いた。


「昨日の女性も来ましたよ」


「探している人の?」


「はい」


「何か分かりました?」


「分からないそうです」


透は少し考えた。


「分からないのに、探してるんですね」


「そうみたいです」


管理人は台帳を閉じた。


「でも、今日来た人は少し違いました」


「どんな人ですか」


「同じ名前の人を知っていた。でも、同じ人だとは思っていない」


透は黙った。


管理人は続けた。


「名前って、不思議ですね」


「そうですね」


「同じ名前でも別人だし、別人なのに同じ人として扱われることもある」


透は返事をしなかった。


その言葉を聞いて、以前のことを思い出した。


仕事場で聞いた話。


誰かが言ったこと。


誰かが覚えていたこと。


そして、そのどれもが完全には一致しなかったこと。


以前なら、透はそこで、


「じゃあ、誰が嘘をついたんだろう」


と考えていたかもしれない。


今は、そうは思わなかった。


「記録って、誰が書いたか分かりますか?」


管理人は少し驚いた顔をした。


「分かるものもあります。分からないものもあります」


「書いた人が分かっても、本当かどうかは分からないですよね」


「ええ」


「じゃあ、記録があることと、事実であることは別なんですね」


管理人はしばらく透を見た。


「……そうですね」


それ以上は話さなかった。


透も、それ以上は聞かなかった。


配給所を出ると、通りの向こうから女性が歩いてきた。


以前、名前を探していた女性だった。


彼女は透に気づくと、足を止めた。


「こんにちは」


「こんにちは」


「少しだけ、聞いてもいいですか」


「はい」


女性は古い写真を取り出した。


「この人のことなんですけど」


写真には、若い男性が一人写っていた。


「前に見せてもらった写真と同じですか?」


「違います」


女性は首を横に振った。


「別の写真です」


「同じ人?」


「……分かりません」


彼女は写真を見た。


「昔の写真は、私が覚えている人に似ています。でも、似ているだけです」


「じゃあ、どうするんですか」


「もう少し考えます」


女性は写真をしまった。


「探すのをやめるかもしれません」


透は何も言わなかった。


女性は少し笑った。


「でも、やめたからって、最初から探さなかったことにはならないですよね」


「そうですね」


「変ですよね」


「そうかもしれません」


女性はそれだけ聞くと、駅の方へ歩いていった。


透はしばらくその背中を見ていた。


探すことにも、やめることにも、理由がある。


名前が同じでも、別人かもしれない。


記録が一致しても、本人とは限らない。


記憶が一致しても、間違っているかもしれない。


それでも、人は誰かを探す。


そして、見つけたとしても、本当に探していた人なのか分からないことがある。


透はスマートフォンを取り出した。


彼女からメッセージが来ていた。


『今日は少し遅くなる』


透は、


『分かった』


とだけ返した。


少し考えてから、もう一文を付け加えた。


『無理しないで』


送信したあと、画面を閉じた。


それが本当に必要な言葉だったのかは、分からない。


ただ、そのときは、そう送りたかった。


透は歩き出した。


背後では、配給所の扉が閉まる音がした。


古い台帳は、まだそこに残っている。


同じ名前も、まだ残っている。


そして、その名前が誰を指しているのかを知る人は、まだ誰もいなかった。

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