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嘘の向こう側  作者: 亀


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第二十五章 残っている場所

翌日の朝。


透は一人で古い住所へ向かった。


女とは駅で別れた。


今日は別々に動くことにした。


同じ場所を二人で調べれば、見落としは減るかもしれない。


その一方で、同じものを見て、同じ説明を受ければ、二人とも同じ結論にたどり着いてしまう可能性もある。


透は、最近そう考えるようになっていた。


駅から十分ほど歩くと、古い建物が見えてきた。


会社案内に載っていた建物とは違う。


外壁は新しく塗り直されている。


入口には、現在使われている会社の名前が掲げられていた。


北側物流ではない。


聞いたことのない会社だった。


透は入口の前で立ち止まった。


ガラス越しに、中で何人かが働いているのが見える。


普通の事務所に見えた。


特別な警備もない。


大きな荷物もない。


ただ、壁際に古い掲示板が残っていた。


そこだけ、建物の他の部分とは少し違って見えた。


透は中へ入った。


受付にいた女性が顔を上げる。


「ご用件を伺ってもよろしいでしょうか」


「以前、この建物に入っていた会社について聞きたいことがあります」


「以前の会社ですか?」


「はい」


女性は少し考えた。


「どちらの会社でしょうか?」


透は古い会社名を伝えた。


女性の表情がわずかに変わった。


「その会社なら、もうありません」


「いつ頃までありましたか?」


「私が入社する前なので、詳しくは……」


「以前ここで働いていた人について、分かりますか?」


女性は首を横に振った。


「人事関係の資料は、前の会社から引き継いでいません」


「そうですか」


透は帰ろうとした。


その時だった。


奥から一人の男性が出てきた。


五十代くらいに見える。


男性は透を見て、受付の女性に声をかけた。


「その会社のことを聞いているのか?」


「はい」


男性は少し黙った。


「何を知りたい?」


「ここで働いていた人についてです」


「誰だ?」


透はすぐには名前を出さなかった。


「何人かいます」


「例えば?」


「南区という場所に関係していた人です」


男性の動きが止まった。


ほんの一瞬だった。


だが、透には分かった。


「南区をご存じですか?」


「昔の話だ」


「どんな場所ですか?」


男性は受付の女性を見る。


「ここでは話しにくい」


そう言って、奥の休憩室を指した。


透は後をついていった。


小さな部屋だった。


男性は椅子に座ると、しばらく何も言わなかった。


「南区は、昔からあった」


「はい」


「ただ、今の南区と昔の南区は同じじゃない」


「どう違いますか?」


「昔は、人が働く場所だった」


「今は?」


男性は答えなかった。


代わりに聞いた。


「誰から南区のことを聞いた?」


透は少し考えた。


「昔の記録です」


「誰の記録?」


「それは言えません」


男性は透を見た。


「……そうか」


怒っているようには見えなかった。


むしろ、少し安心したようにも見えた。


「それなら、まだ誰にも話していないんだな」


透は答えなかった。


男性は続けた。


「昔、この会社では人を運ぶ仕事もしていた」


「人を?」


「正確には、人を運ぶ仕事だと思っていた」


「どういう意味ですか?」


「従業員を現場へ送る。作業員を別の事業所へ移す。そういう意味だ」


「普通の物流ですね」


「最初はな」


男性は机の上を指で軽く叩いた。


「そのうち、荷物と一緒に人の情報を扱うようになった」


透は黙って聞いた。


「住所、勤務先、家族構成、連絡先。誰がどこにいるか。誰がどこへ行ったか」


「なぜ?」


「必要だったからだ」


「誰に?」


男性は少し笑った。


「それが分からないまま、仕事だけが増えていった」


透はその言葉を聞いて、以前の元同僚の話を思い出した。


仕事そのものより、仕事をしていること自体が必要だった。


「南区も、その一つですか?」


「たぶん」


「たぶん?」


「私は全部を知らない」


男性ははっきり言った。


「そこが重要なんだ」


透は顔を上げた。


「みんな、自分の仕事は知っていた。でも、その仕事が何につながっているのかは知らなかった」


「それで問題は起きなかったんですか?」


「起きたと思う」


「思う?」


「記録上は、起きていない」


部屋が静かになった。


透はその言葉を聞いて、すぐに意味を理解した。


「記録がないから?」


「そう」


男性は頷いた。


「記録に残っていないことは、起きていないことになった」


「でも、人は覚えている」


「覚えている人もいる」


「では、なぜ誰も言わなかったんですか?」


男性は少し考えた。


「言った人もいる」


「その後は?」


「会社を辞めた」


透は黙った。


それ以上、男性は詳しく話さなかった。


やがて男性は立ち上がり、古い棚を開けた。


中から一冊の薄いファイルを取り出した。


「これは持って帰れない」


「はい」


「見るだけならいい」


ファイルには、古い従業員名簿が入っていた。


透はページをめくった。


そこには、何十人もの名前が並んでいた。


その中に、


あの男の名前があった。


女の弟ではない。


第十九章で会った元同僚の名前だった。


透の手が止まった。


「この人は、ここで働いていたんですか?」


「そうだ」


「弟さんも?」


男性は答えなかった。


透は顔を上げる。


「知っていますか?」


「名前を見せてもらえれば分かるかもしれない」


透は名前を言わなかった。


男性も、それ以上聞かなかった。


ファイルを閉じる。


「それでいい」


「何がですか?」


「名前を簡単に渡さないことだ」


男性はファイルを棚へ戻した。


「昔は、名前さえあれば人を追えると思っていた」


「今は違う?」


「名前があるからこそ、追われることもある」


透は何も言わなかった。


帰り際、男性が一つだけ教えてくれた。


「南区へ行った人間が、全員そこへ行きたかったわけじゃない」


「はい」


「でも、全員が騙されたわけでもない」


「……はい」


「だから、外から見ている人間には分からない」


透は入口まで歩いた。


「最後に一つ聞いてもいいですか?」


「何だ?」


「南区第七居住棟は、今もありますか?」


男性は少し考えた。


「建物としては、ある」


「使われていますか?」


「それは知らない」


透は礼を言って外へ出た。


建物の前に立つ。


新しい会社名。


新しい看板。


新しい人間。


けれど、その場所には昔の記録が残っていた。


会社はなくなっても、場所は残る。


名前が変わっても、仕事の一部は残る。


人が辞めても、別の人間が同じ仕事を引き継ぐ。


透は駅へ向かって歩き出した。


途中で端末を見る。


女からメッセージが届いていた。


『そっちで何か分かった?』


透は返信画面を開いた。


しばらく考えてから、


『少し』


とだけ送った。


すぐに返信が来た。


『私も』


透は画面を見つめた。


二人とも、何かを見つけた。


二人とも、それを全部は伝えなかった。


それでも、歩く方向は同じだった。


透は端末をしまった。


そして初めて思った。


もしかすると、真実というものは、


最初から一つの場所に置かれているものではないのかもしれない。


人がそれぞれ別の場所で見たものを、


少しずつ持っている。


そして誰かが、その一部を隠している。


誰かが、忘れている。


誰かが、知らない。


誰かが、自分には必要ないと思っている。


その全部が重なった時、


人は一つの出来事を作り出す。


誰一人、その全体を知らないまま。

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