第二十四章 必要とされた場所
翌朝。
透は、机の上に昨夜拾った紙片を置いた。
白い紙の端に、黒い文字が残っている。
N―07
それだけだった。
昨日までなら、南区第七居住棟を思い浮かべていた。
だが、今は違う。
同じ記号が、別の場所でも使われている。
それなら、記号そのものに意味があるのではない。
誰かが、その記号を必要としている。
透は古い記録を一枚ずつ並べた。
南区第七居住棟。
北側物流。
物流会社。
消えた記録。
弟。
元同僚。
そして、自分。
一つずつ見ると、どれも別々の話に見える。
だが、記録の端に残る小さな文字だけが重なっている。
N―07。
透はスマートフォンで検索した。
何も出てこない。
検索結果には、一般的な物流コードや製品番号が並ぶだけだった。
次に、以前見た端末の記録を思い出した。
南区第七居住棟では、N―07は場所を示していた。
北側物流では、荷物の処理番号として使われていた。
同じ文字でも、意味が違う。
透はそこで手を止めた。
「……同じ情報じゃない」
同じ記号を見ても、受け取る側によって意味が変わる。
ならば、問題は記号ではない。
それをどう説明されたか。
あるいは、説明されなかったか。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
透は立ち上がった。
ドアを開けると、女が立っていた。
「急に来て、ごめん」
「いえ」
彼女は周囲を確認してから入った。
「昨日のこと、少し調べた」
「何か分かりましたか?」
「弟がいた会社について」
彼女は一枚のコピーを取り出した。
古い会社案内だった。
表紙には、すでに存在しない会社名が書かれている。
「この会社です」
透は紙を見る。
「あの人が働いていた会社?」
「そう」
「北側物流とは違いますね」
「うん。でも、住所が同じだった」
透は顔を上げた。
「同じ?」
「会社案内に載っている住所と、北側物流の古い登記記録に残っている住所が同じ」
透はコピーを受け取った。
住所を見る。
確かに一致していた。
「会社が変わった?」
「たぶん」
「たぶん?」
「そこまでは確認できてない」
透は頷いた。
彼女は続けた。
「それと、弟が南区へ行く前に、その会社の人と会っていた」
「誰ですか?」
「分からない」
「名前は?」
「弟の古い端末に、名前だけ残ってた」
彼女は画面を見せた。
そこには一人の名前が表示されている。
透はその名前を見た。
知らない名前だった。
「この人が何をしていたかは?」
「分からない」
「連絡は?」
「一度だけ」
「何を話したんですか?」
彼女は首を横に振った。
「会話の内容は残ってない」
透は黙った。
昨日までなら、ここで名前を聞いて調べ始めただろう。
だが、今は違った。
「その名前、誰かに見せましたか?」
「まだ」
「どうして?」
彼女は少し考えた。
「あなたに見せる前に、私が確認したかったから」
「何を?」
「この人が、本当に弟を知っていたのか」
透は頷いた。
「それなら、まだ調べない方がいいかもしれません」
彼女は少し驚いた。
「調べないの?」
「調べる。ただ、いきなり本人を探すのではなくて」
「どうする?」
透は机の上の紙を指差した。
「この会社の名前が変わる前と後で、誰が同じ場所に残っていたのかを見る」
彼女は紙を見た。
「人を探すんじゃなくて?」
「人を探します。でも、名前からではなく、場所から」
彼女は少しだけ笑った。
「変わったね」
透は答えなかった。
以前の自分なら、人に答えを聞きに行っていた。
今は、答えを持っている人間がいるとは限らないと思っている。
二人は古い会社案内を見ながら、住所を確認した。
その住所は、現在では別の建物になっていた。
地図を見ると、北側物流の施設からそれほど遠くない。
「行ってみますか?」
女が聞いた。
透は少し考えた。
「今日は行かない」
「どうして?」
「誰かが待っているかもしれないから」
彼女は黙った。
「じゃあ、いつ行く?」
「誰も待っていないと思える時に」
「そんな時、来る?」
「分かりません」
二人は顔を見合わせた。
それから、彼女が笑った。
「分からないって言えるようになったね」
透も少し笑った。
その日の午後。
二人は会社の住所には行かなかった。
代わりに、近くの図書館で古い地域資料を探した。
企業名。
住所。
移転。
合併。
廃業。
小さな記事を一つずつ確認する。
三時間ほど経った頃、透が一つの記録を見つけた。
「これ」
古い新聞記事だった。
数年前、ある物流会社が事業の一部を別会社へ譲渡したという短い記事。
そこに、見覚えのある住所があった。
女が覗き込む。
「……ここ」
記事の最後に、小さな一文があった。
「旧事業所の一部は、現在も関係会社が使用している。」
透はその文章を何度も読んだ。
会社は消えた。
しかし、場所は消えていない。
名前も変わった。
しかし、そこで働いていた人間が全員消えたわけではない。
そして記録も、完全には消えていない。
ただ、別の場所へ移っている。
透はノートを閉じた。
「明日、ここを調べます」
女は頷いた。
「私も行く」
「はい」
二人は図書館を出た。
外はもう暗くなっていた。
駅へ向かう途中、女が突然言った。
「透」
「はい」
「私、まだあなたに言ってないことがある」
透は歩く速度を落とした。
「何ですか?」
彼女はすぐには答えなかった。
「弟から最後に来たメッセージ」
「……はい」
「本当は、もう一つあった」
透は彼女を見た。
「何と?」
彼女はスマートフォンを取り出した。
画面には、短い文章が残っていた。
『俺がいなくなったら、探さなくていい。』
透は何も言わなかった。
女は続けた。
「でも、その下にもう一行あった」
「見せてもらえますか?」
彼女は少し迷ってから、画面を下へスクロールした。
そこには、
『ただし、あの場所だけは信じるな。』
と書かれていた。
透は画面を見つめた。
「あの場所?」
「分からない」
「弟さんに聞かなかった?」
「返信した。でも、返事は来なかった」
駅の明かりが二人の足元を照らしていた。
透はしばらく考えた。
それから、スマートフォンを返した。
「今日は、ここまでにしましょう」
「いいの?」
「はい」
「気にならない?」
「気になります」
透は前を向いた。
「だからこそ、今すぐ答えを決めない方がいいと思います」
女は何も言わなかった。
二人は駅まで歩いた。
同じ方向へ進んでいた。
けれど、それぞれが持っている情報は、まだ同じではなかった。




