第二十三章 それぞれの理由
透は住宅街を歩いていた。
夕方になり、道路に長い影が伸びている。
端末には、女から届いた最後のメッセージが残っていた。
――弟が南区へ行った後、私にも一度だけ連絡してきた。
透は何度もその文章を読み返した。
昨日、女は言った。
弟から連絡が来たことはない、と。
正確には、言わなかった。
そして今日、それを話した。
男も同じだった。
南区へ行った後、弟から連絡はなかった。
そう言っていた。
だが、一度だけあった。
二人とも嘘をついていた。
それなのに、二人の話を合わせても、弟がどこにいるのかは分からない。
透は立ち止まった。
「……変だな」
誰もいない道路で、声が漏れた。
普通なら、嘘を一つ見つければ、その嘘の反対側に真実があると思う。
しかし、今は違った。
嘘の反対側にも、別の嘘がある。
そして、そのさらに向こうにも、別の事情がある。
透は歩きながら考えた。
女はなぜ隠したのか。
弟を探す理由を失いたくなかったから。
男はなぜ隠したのか。
弟の選択を他人に決めつけられたくなかったから。
では、弟本人はなぜ隠したのか。
そこだけが分からない。
透は端末を取り出した。
女に電話をかける。
しばらくして、繋がった。
「もしもし」
「透?」
「はい」
「どうしたの?」
「弟さんから来たメッセージについて、聞きたいことがあります」
「何?」
「連絡が来た時、弟さんは何を言っていましたか?」
電話の向こうが静かになった。
「……帰れない、と」
「それだけ?」
「違う」
女は少し迷った。
「『まだ帰らない』と言った」
「帰れない、ではなく?」
「うん」
透は黙った。
たった一文字の違いだった。
しかし、意味は違う。
帰れない。
帰らない。
誰かに止められているのか。
自分で残っているのか。
それだけでも、受け取る側の考えは大きく変わる。
「どうして最初に言わなかったんですか?」
「怖かったから」
「何が?」
「弟が、自分で帰らないと決めたことを認めるのが」
透は何も言わなかった。
女は続けた。
「私は、弟が騙されたと思っていたかった」
「……はい」
「その方が、探し続けられるから」
透は窓のない家々を見ながら歩いた。
「今も、探しますか?」
「探す」
「弟さんが自分で残ったとしても?」
「それでも探す」
「どうして?」
女はしばらく答えなかった。
「会って聞きたいから」
透はその言葉を聞いて、少しだけ安心した。
理由を一つに決めなくてもいい。
助けたいから探す。
自分で選んだのか確認したいから探す。
ただ会いたいから探す。
全部同時でもいい。
「透」
「はい」
「あなたは、何か見つけた?」
透は答える前に考えた。
昨日見つけた名前。
今日訪れた家。
そこで聞いた話。
そして、南区へ行かなかった人間の住所。
「少しだけ」
「教えてくれる?」
透は黙った。
ここで話せば、二人で調べられる。
だが、まだ自分の中で整理できていない。
「今は、まだ」
「分かった」
女は意外なほど簡単に答えた。
「じゃあ、私もまだ全部は話さない」
「はい」
「それでいい?」
透は少し笑った。
「いいと思います」
通話が終わった。
透は端末をポケットにしまった。
その時、前方に小さな公園が見えた。
ベンチに一人の老人が座っている。
その横に、古い新聞が置かれていた。
透は通り過ぎようとした。
だが、新聞の見出しに目が止まった。
物流会社の再編についての記事だった。
数年前の記事らしい。
その中に、南区の名前はない。
北側物流の名前もない。
ただ、いくつかの会社が統合されたという記録だけが載っている。
透は立ち止まった。
「会社が消えたんじゃない」
誰に言うでもなく呟いた。
「名前が変わっただけかもしれない」
老人が顔を上げた。
「何か探してるのか?」
透は少し驚いた。
「……はい」
「見つかったか?」
「まだです」
老人は新聞を畳んだ。
「探し物ってのは、見つけたと思った時に別のものだったりする」
透は苦笑した。
「そうですね」
「昔の名前を探してるなら、今の名前も見た方がいい」
透は老人を見る。
「どういう意味ですか?」
「会社でも人でも、名前を変えたら別人になるわけじゃない」
それだけ言って、老人は新聞を持って立ち上がった。
透はその後ろ姿を見送った。
会社。
人。
記録。
名前。
どれも形を変える。
それでも、以前のものと完全に別になるとは限らない。
透は公園のベンチに座った。
紙を取り出す。
そして、初めて一本の線を引いた。
南区第七居住棟
そこから、
北側物流
へ。
だが、途中で線を止めた。
まだ確定ではない。
だから、線を一本ではなく、点線にした。
その横に、
関係がある可能性
と書いた。
さらに、
女の弟
元同僚
記録から消えた人間
を並べた。
そして、最後に、
透
と書いた。
自分自身も、その図の外には置けない。
自分が見たもの。
自分が信じたもの。
自分が隠したもの。
それらもまた、この出来事の一部になっている。
その時、端末が震えた。
白石からだった。
『今、どこにいる?』
透は画面を見た。
以前なら、すぐに答えていた。
今回は少し考えた。
そして、
『少し歩いています』
とだけ送った。
白石から返事が来る。
『そうか。気をつけて帰れ』
それだけだった。
透は端末を閉じた。
白石も、聞きたいことを全部聞いているわけではない。
自分も、全部を話していない。
それでも会話は成立する。
情報が完全でなくても、人間同士は一緒にいられる。
ただし、その関係がいつまで続くのかは分からない。
透は立ち上がった。
帰ろうとした時、ベンチの下に小さな紙片が落ちているのに気づいた。
拾い上げる。
古い配送伝票の切れ端だった。
そこには、
N―07
とだけ印刷されていた。
透は紙を見つめた。
今日、初めて見たわけではない。
だが、その記号を見た瞬間、
一つだけ分かった。
南区を作った人間を探しているのではない。
南区を必要とした人間を探している。
そして、その人間たちは、
一人ではないのかもしれない。
透は紙片をポケットに入れた。
今度は、誰にも見せるためではなく、
自分が忘れないために。
夜の街へ向かって、歩き出した。




