第241章 名前を知っている人
朝、広場に行くと、机の下に置かれていた紙はなくなっていた。
昨日まで貼られていた「一人一件まで」という紙も消えている。
代わりに、新しい紙が一枚だけ貼られていた。
「必要なものを一つ、お持ちください」
理由は書かれていなかった。
透はしばらく紙を見ていた。
「戻ったね」
彼女が言った。
「うん」
「一人二点から、一点になって、それから一つになった」
「同じじゃない?」
「そうだけど」
彼女は笑った。
「書き方が違う」
そのとき、広場の奥から大きな声がした。
「だから、昨日の紙は俺が貼ったんだって!」
見ると、昨日の工具を持って帰った男性が、管理の女性と話していた。
「あなたが?」
「そう」
「でも、私は頼んでいません」
「頼まれてない。でも、必要だと思ったから」
「それで勝手に?」
「勝手じゃない。三点持って帰った人がいたから、問題になると思ったんだ」
管理の女性は黙った。
「だから、一点にした」
「あなたが決めたんですか?」
「誰かが決めないといけないでしょう」
「あなたは管理者じゃありません」
「じゃあ、あなたが決めればいい」
男性は工具箱を地面に置いた。
「俺はもう口を出さない」
そう言って、男性は立ち去った。
管理の女性はため息をついた。
透は近づかなかった。
彼女も同じだった。
二人は少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。
しばらくすると、別の女性が広場にやって来た。
「昨日の紙、また変わったんですね」
「はい」
「昨日三つ持っていった人のせい?」
管理の女性は少し迷った。
「そういうわけではありません」
「でも、そう聞きましたよ」
「誰から?」
「昨日いた人から」
「誰ですか?」
女性は名前を言った。
管理の女性は首を振った。
「その人、昨日ここにはいませんでしたよ」
「え?」
「少なくとも、私は見ていません」
女性は困った顔をした。
「じゃあ、誰から聞いたんだろう」
管理の女性は答えなかった。
昼前。
透の職場でも、その話が広がっていた。
「三つ持って帰った人、分かったらしいよ」
「誰?」
「名前が出回ってる」
「本当に?」
「うん」
同僚が紙を見せてきた。
昨日、机の下に置かれていた紙と同じ名前だった。
透は見たことのない名前だった。
「この人、知ってる?」
「知らない」
「俺も」
「でも、昨日三つ持っていったんだって」
透は紙を返した。
「誰が言ったの?」
「さあ」
「本人は?」
「知らない」
その日の帰り。
透は広場へ寄った。
例の男性が一人で工具を磨いていた。
「まだ使ってるんですね」
「うん」
「昨日の話、聞きました」
「どの話?」
「三つ持って帰った人のこと」
男性は手を止めた。
「名前まで出てるね」
「知ってますか?」
「名前だけなら」
「本人を?」
「知らない」
透は少し迷った。
「じゃあ、どうして名前を知ってるんですか?」
男性は工具を布で拭きながら答えた。
「紙に書いてあったから」
「その紙は、誰が書いたんですか?」
男性は顔を上げた。
「さあ」
「誰かから聞いたわけじゃない?」
「聞いてない」
「そうですか」
男性は少し笑った。
「名前を知っていることと、その人を知っていることは違うでしょう」
透は何も言わなかった。
その言葉は、以前どこかで聞いたことがあるような気がした。
広場を出ると、彼女が待っていた。
「何してたの?」
「少し話してた」
「例の人?」
「うん」
「何て?」
「名前を知っていることと、その人を知っていることは違うって」
彼女は少し考えた。
「その人、前にも似たこと言ってなかった?」
「言ってた」
「変な人だね」
「うん」
「でも、嫌いじゃない」
透は笑った。
「どうして?」
「自分で決める人だから」
二人は歩き出した。
駅へ向かう途中、彼女がスマートフォンを見た。
「ねえ」
「うん?」
「その名前、私も知ってる」
透が足を止めた。
「どこで?」
「さっき、メッセージで送られてきた」
「誰から?」
彼女は画面を閉じた。
「それは言わない」
透は彼女を見た。
彼女は少し笑った。
「聞かないの?」
「聞いても、言わないんでしょう?」
「うん」
「じゃあ、いい」
二人は再び歩き始めた。
その日の夜。
配給所の倉庫で、管理の女性が一人で帳簿を確認していた。
そこには、例の名前が書かれていた。
ただし、その名前の横には小さく、
「受け取りなし」
と記録されていた。
女性は何度もその文字を見直した。
「……じゃあ、誰が書いたの?」
返事はなかった。
倉庫の外では、誰かが足音を立てて通り過ぎた。
女性は帳簿を閉じた。
そして、名前の書かれたページだけを一枚、破り取った。




