第237章 傷のついた缶詰
翌朝。
配給所の箱には、昨日と同じように十個の缶詰が並んでいた。
ただ、一つだけ表面にへこみがある。
担当者はそれを手に取った。
「これ、昨日の?」
「たぶん」
「交換する?」
「中身は大丈夫でしょう」
「でも、傷がある」
二人は缶詰を見た。
結局、そのまま箱に戻した。
午前十時。
配給が始まった。
最初に来たのは、いつも同じ時間に来る老人だった。
「今日は何がある?」
「缶詰とパンです」
「じゃあ、缶詰一つ」
担当者が箱を見る。
へこんだ缶詰が、一番手前にあった。
手を伸ばしかけたところで、老人が言った。
「それ、傷があるね」
「はい」
「別のにしてもらえる?」
「もちろんです」
担当者は隣の缶詰を渡した。
老人は受け取って帰った。
次に来た女性は、へこんだ缶詰を見た。
「これでもいいですよ」
「本当に?」
「家で食べるだけだから」
担当者はその缶詰を渡した。
女性は代金を払わず、配給品を袋に入れた。
「ありがとう」
それだけ言って帰った。
昼過ぎ。
若い男が箱を確認していた。
「これ、誰かにあげてもいいですか?」
担当者が顔を上げる。
「何を?」
「この缶詰」
へこんだ缶詰だった。
「もう受け取ったものなら、あなたの判断でいいと思います」
「じゃあ、もらいます」
男は缶詰を持って帰った。
夕方。
配給所の前に、一人の少女が立っていた。
十歳くらいだった。
手には小さな紙袋。
「これ、返します」
担当者が受け取る。
中には缶詰が一つ入っていた。
「どうしたの?」
「お母さんが、昨日もらったものだから返してって」
担当者は缶詰を見る。
へこみはない。
「どうして返すの?」
少女は首を振った。
「知らない」
「お母さんは?」
「家にいる」
「名前を聞いてもいい?」
少女は少し考えてから答えた。
「言わなくてもいいって言ってた」
担当者は困った顔をした。
「そう……」
少女は紙袋を置いた。
「じゃあ、帰るね」
「待って」
「何?」
「これ、本当に返す?」
「うん」
「お母さんに、返したって伝えておくね」
少女は頷いて帰っていった。
担当者は紙袋を開けた。
缶詰の底に、小さな文字が書かれていた。
「二人分」
それだけだった。
「二人分?」
近くにいた男が覗き込む。
「誰の字だろう」
「分からない」
その日の夜。
透は彼女と食事をしていた。
「今日、変なことがあった」
「また配給所?」
「うん」
透は少女の話をした。
彼女はしばらく黙っていた。
「返したのは、缶詰?」
「うん」
「二人分って書いてあった?」
「そう」
「それなら、お母さんとその子の分だったのかもね」
「でも、どうして返したんだろう」
「食べられない理由があったとか」
「誰かに渡したかったとか?」
「分からない」
透は頷いた。
「そうだね」
彼女は箸を置いた。
「ねえ」
「うん?」
「もし、自分の分を誰かにあげたとして、その人に理由を聞かれたら?」
「理由を言う?」
「分からない」
「言いたくなければ言わなくてもいいんじゃない?」
彼女は少し笑った。
「最近、そういう答えが多くなったね」
「そうかな」
「うん」
「じゃあ、悪くないのかも」
「そうかもね」
翌朝。
配給所の担当者が倉庫に入ると、昨日の紙袋がなくなっていた。
代わりに、棚の上に別の缶詰が一つ置かれていた。
へこみのない新品だった。
缶詰の横には、短い紙があった。
「昨日の分です」
名前はなかった。
担当者は紙をしばらく見ていた。
そして、それを帳簿の間に挟んだ。
誰が返したのか。
何を返したのか。
昨日の「二人分」が何を意味していたのか。
その日の朝には、まだ誰にも分からなかった。




