第236章 なくなった一つ
翌朝。
倉庫の前に置かれていた箱を見て、最初に気づいたのは若い男だった。
「一つ、ないです」
担当者が振り返った。
「何が?」
「昨日の箱。十個あったでしょう」
箱の中には九個しかなかった。
誰もすぐには話さなかった。
「昨日、誰か触った?」
「俺は触ってない」
「私も」
「夜、鍵は?」
「掛けた」
「じゃあ、どうやって?」
担当者は倉庫の入口を見た。
鍵は壊れていない。
窓も閉まっている。
ただ、倉庫には裏口があった。
その扉だけは、昼間は人の出入りが多いため、鍵を掛けないことになっていた。
「裏から持っていった?」
「誰が?」
「知らない」
「昨日の夜、誰か残ってた?」
「分からない」
話はそこで止まった。
誰かが盗った。
そう考えるのは簡単だった。
けれど、誰もその場では口にしなかった。
しばらくして、昨日の笑う男がやって来た。
「どうしたの?」
「缶詰が一つなくなってる」
「一つ?」
「十個あったのが、九個になった」
男は箱の中を覗いた。
「一つくらいなら、誰かが持っていったんじゃない?」
若い男が言った。
「それを盗ったって言うんですよ」
男は少し笑った。
「そうかもしれないね」
「またそういう言い方する」
「だって、誰が持っていったか分からないでしょう」
「じゃあ、分からないままでいいんですか?」
男は答えなかった。
そのとき、倉庫の外から声がした。
「それ、私が持っていきました」
全員が振り返った。
昨日、配給所で缶詰を受け取れなかった男性だった。
彼は少し離れたところに立っていた。
「昨日の夜、ここに来ました」
「どうして?」
「昨日もらえなかったから」
「勝手に持っていったんですか?」
「はい」
「どうして何も言わなかった?」
男はしばらく黙った。
「言ったら、返せって言われると思ったから」
誰も何も言わなかった。
担当者が近づいた。
「その缶詰、まだ持っていますか?」
「あります」
男は袋から缶詰を一つ出した。
「食べてないです」
担当者は缶詰を受け取った。
「どうして食べなかったんですか?」
「……怖かったから」
「何が?」
「これを食べて、あとで誰かに見つかったらどうしようって」
その言葉に、若い男が少し顔を伏せた。
担当者は缶詰を箱に戻した。
「次からは、勝手に持っていかないでください」
「はい」
「必要なら言ってください」
「言っても、もらえないと思いました」
担当者は何も言えなかった。
男は頭を下げて帰っていった。
笑う男が、その背中を見ていた。
「……言えばよかったのに」
担当者が言った。
「言えなかったんでしょう」
「それでも、盗るのは違う」
「うん」
笑う男は頷いた。
「それはそうだね」
その日の配給は、予定より少し遅れて始まった。
誰も昨日のことを大きく話さなかった。
けれど、列の人たちは互いの顔を何度も見ていた。
誰かが盗った。
誰かが隠した。
誰かが困っていた。
それぞれの話が、少しずつ違っていた。
透は列の後ろで、その様子を見ていた。
隣にいた女性が言った。
「昨日の缶詰、返ってきたね」
「うん」
「じゃあ、終わりかな」
「どうだろう」
「まだ何かあると思う?」
透は箱を見る。
九個だった缶詰が、今は十個になっている。
「分からない」
女性は笑った。
「最近、そればっかりね」
「そうかもしれない」
その日の夜。
彼女と駅前で会った。
「今日は?」
「缶詰が一つなくなって、一つ戻ってきた」
「何それ」
彼女が笑う。
透も笑った。
「でも、戻ってきた理由は分かった」
「盗った人が分かったの?」
「本人が言った」
「じゃあ、解決したね」
透は少し考えた。
「……たぶん」
彼女は何も言わなかった。
二人は駅前のベンチに座った。
しばらくして、彼女が鞄から乾電池を取り出した。
「これ、今日返してきた」
「配給所に?」
「うん」
「何て言われた?」
「何も。受け取ってくれただけ」
「そうなんだ」
「でも、一つだけ聞かれた」
「何を?」
「誰からもらったのかって」
透は彼女を見る。
「答えた?」
「答えなかった」
「どうして?」
彼女は少し笑った。
「私が言わなくても、あの人が困るとは思わなかったから」
透は黙った。
「それに」
彼女は乾電池を鞄に戻した。
「知っていることを全部話すのが、正しいとは限らないでしょう?」
透は少しだけ笑った。
「うん」
駅のホームから電車の音が聞こえた。
二人は立ち上がった。
配給所では、十個の缶詰が箱の中に並んでいる。
ただ、その十個のうち一つだけには、小さな傷がついていた。
誰かが一度、強く握ったような跡だった。
誰も、それについては何も言わなかった。




