第235章 誰のものか
箱は、その日の午前中ずっと倉庫の隅に置かれていた。
誰も触らなかった。
配給所の責任者が来ても、箱を見るだけだった。
「これ、昨日からあった?」
「今朝見つけました」
「誰が置いたかは?」
「分かりません」
「中身は?」
「缶詰が十個です」
責任者は箱の中を確認した。
賞味期限も問題ない。
包装も破れていない。
数量も十個。
それだけだった。
「使えるなら、配ればいいんじゃないですか」
若い男が言った。
もう一人が首を振った。
「誰のものか分からない」
「でも、ここに置いてあるんだから」
「置いてあることと、配っていいことは違う」
「じゃあ、どうする?」
誰も答えなかった。
結局、その箱は倉庫の奥に移された。
鍵は掛けなかった。
ただ、誰も触らなかった。
その日の配給は予定どおり始まった。
昨日より人は少なかった。
「今日は少ないね」
「昨日もらったから」
「昨日は多かったからね」
列の中には、昨日より余裕のある顔が多かった。
ところが、昼前になって一人の男性がやって来た。
「昨日、俺の分がなかったんだけど」
担当者が確認する。
「昨日は来られなかったんですか?」
「来た。でも、途中で仕事に戻らなきゃいけなくなった」
「受け取っていない?」
「受け取ってない」
担当者は名簿を確認した。
名前の横には何も書かれていない。
「今日は渡せます」
「昨日の分も?」
「昨日の分は、昨日の配給ですから」
男は黙った。
「でも、俺は必要なんだよ」
担当者も困った顔をした。
「必要なのは分かります。ただ、昨日の分を今日渡す決まりはありません」
「決まりって誰が決めたんだ?」
周囲が静かになった。
担当者は答えなかった。
少し離れたところにいた、あの笑う男が近づいてきた。
「俺の分から出せばいいよ」
「それはできません」
「でも、余ってるでしょう」
「あなたの分も、あなたのものではありません」
男は少し黙った。
「じゃあ、どうする?」
担当者は答えなかった。
結局、別の人が自分の受け取った缶詰を一つ差し出した。
「これでいいでしょう」
男性はそれを受け取った。
「ありがとう」
それだけ言って帰っていった。
笑う男は、その様子を見ていた。
「そういうこともあるんだな」
担当者が言った。
「そういうことがあるから、決まりが必要なんです」
「でも、決まりだけじゃ足りないこともある」
「だから、今こうして困ってるんでしょう」
二人の間に、短い沈黙があった。
透は少し離れた場所から見ていた。
どちらの言っていることも、間違っているとは思わなかった。
ただ、どちらも相手の言葉だけでは動かなかった。
帰り道、透は駅前で彼女に会った。
「今日はどうだった?」
「配給所で少し揉めてた」
「また?」
「うん。でも、昨日とは違う」
「何が?」
「昨日は、物が足りなかった。今日は、誰の物なのかで揉めてた」
彼女は少し考えた。
「同じ物なのにね」
「うん」
「人って、物が足りないときより、物があるときのほうが揉めることもあるよ」
「どうして?」
「誰が持つか決めなきゃいけないから」
透は笑った。
「それ、分かる気がする」
二人は駅の階段を下りた。
その途中で、彼女が突然立ち止まった。
「そういえば」
「うん?」
「昨日の乾電池」
「うん」
「返そうと思ってる」
「誰に?」
「分からない」
「配給所に?」
「それも分からない」
透は少し考えた。
「じゃあ、まだ持ってればいいんじゃない?」
「そうする」
彼女は袋を鞄に戻した。
「でも、少し変なの」
「何が?」
「二本しかないのに、どうして私にくれたんだろうって」
透は答えなかった。
その日の夜。
配給所の倉庫で、一人の男が鍵を開けた。
昼間の担当者だった。
奥に置かれた箱を確認する。
缶詰十個。
その隣には、古い帳簿が一冊あった。
男は帳簿を開いた。
昨日消えていた数字の横に、小さな印が付いている。
その印を見て、男はしばらく動かなかった。
やがて帳簿を閉じた。
「……まだ残ってたのか」
独り言だった。
そして箱を開けることなく、倉庫を出た。
翌朝。
箱はまだそこにあった。
ただし、十個だった缶詰は九個になっていた。




