第232章 知っていた人
翌朝、配給所には昨日より多くの人が集まっていた。
理由は分からなかった。
「今日は多いね」
「昨日、明日は少ないって聞いたからじゃない?」
「少ないなら、早く来たほうがいいと思ったんでしょう」
そんな会話が、列のあちこちから聞こえていた。
透は少し離れた場所を通り過ぎようとした。
そのとき、一人の女性が列から抜けた。
四十代くらいだった。
手には小さな紙袋を持っている。
女性は配給所の裏側へ回り、倉庫の前にいた男に声をかけた。
「昨日の分、まだ残ってる?」
「何のことですか?」
「乾電池」
「少しなら」
「取っておいてくれた?」
男は困った顔をした。
「取っておくとは言ってません」
「でも、昨日そう言ったじゃない」
「言ってません」
「言ったよ」
二人の声が少し大きくなった。
透は足を止めた。
女性は周囲を見た。
そして、少し声を落とした。
「あなた、私が何に使うか知ってるでしょう?」
「知りません」
「嘘」
「本当に知りません」
「昨日、あなたに話したじゃない」
男はしばらく黙った。
「昨日、たくさんの人に話しかけられたから」
「だから?」
「誰が何を言ったか、全部覚えてません」
女性は不満そうに口を閉じた。
そこへ、昨日の三人の一人が来た。
「どうした?」
女性がすぐに言った。
「この人、昨日、取っておくって言ったんです」
「言った?」
三人の男は倉庫の男を見る。
「言ってない」
「でも、私は聞いた」
「じゃあ、どっちが本当なんだ?」
女性は答えなかった。
少しして、
「もういい」
と言って、その場を離れた。
透はその女性が広場の角を曲がるまで見ていた。
昨日までなら、どちらが嘘をついているのか気になったかもしれない。
今日は、そうでもなかった。
ただ、一つだけ気になった。
女性はなぜ、あれほど確信していたのだろう。
昼休み。
会社の休憩室で、透は偶然その女性を見かけた。
会社の人間ではない。
ただ、誰かを待っているようだった。
「ここに何か用ですか?」
女性は振り返った。
「あなた、昨日の配給所にいた人?」
「はい」
「そう」
女性は少し笑った。
「じゃあ、あの人のこと知ってる?」
「あの人?」
「昨日、笑ってた人」
「少しだけです」
女性は椅子に座った。
「私、あの人のこと、昔から知ってるの」
透は黙って聞いた。
「昔から?」
「うん」
「どういう人なんですか?」
女性はしばらく考えた。
「いい人だよ」
「……そうなんですか」
「でも、嘘もつく」
透は少し驚いた。
「どんな嘘ですか?」
「小さい嘘」
女性は笑った。
「『大丈夫』とか、『すぐ戻る』とか、『明日には何とかなる』とか」
「それは……」
「全部、本人も信じてるときがある」
「本人も?」
「そう」
女性は窓の外を見た。
「昔からそうなの」
「どういう意味ですか?」
「誰かを安心させたいと思った瞬間に、自分まで安心したくなるの」
透は何も言わなかった。
「だから、嘘をついてるというより、先に願ってるのかもしれないね」
「願う?」
「明日も大丈夫であってほしい。だから『大丈夫』って言う」
女性は少し笑った。
「そういう人」
透はその言葉を聞いて、昨日の男を思い出した。
「じゃあ、あの人は悪い人じゃないんですね」
女性はすぐに答えなかった。
「それも分からない」
「え?」
「いい人か悪い人かなんて、そんな簡単に決められないでしょう」
女性は立ち上がった。
「ただね」
「はい」
「あの人、誰かを助けるのが好きなの」
「それは、いいことじゃないですか?」
「うん。でもね」
女性は少し困ったように笑った。
「助けられないときまで、助けられるような顔をするの」
その日の夜。
透は彼女にその話をした。
彼女は黙って聞いていた。
「その人、あの男のことを昔から知ってたんだ」
「うん」
「じゃあ、配給所の人たちより詳しいんだね」
「そうだと思う」
「でも、何も言わなかった」
「何を?」
「昨日まで」
透は考えた。
確かに、その女性が昨日の時点で男のことを説明していれば、周囲の見方は少し変わっていたかもしれない。
「どうして言わなかったんだろう」
「聞かれなかったからじゃない?」
「それだけ?」
「それだけかもしれない」
彼女は少し笑った。
「人って、自分が知っていることを全部説明する義務はないから」
透は頷いた。
そのとき、彼女の携帯電話が鳴った。
彼女は画面を見て、少し迷ってから電話に出た。
「もしもし」
相手の声は透には聞こえなかった。
「うん」
少し沈黙する。
「分かった」
また沈黙。
「じゃあ、そうする」
電話を切った。
透は何も聞かなかった。
彼女も説明しなかった。
二人はしばらく歩いた。
駅に近づいたところで、彼女が言った。
「聞かないの?」
「話したければ話すと思ってる」
「前なら聞いてた?」
「たぶん」
「そう」
彼女は笑った。
「じゃあ、少しだけ変わったね」
透は笑わなかった。
「でも、気になってるよ」
「うん」
「聞かないだけ」
「それでいいよ」
二人は駅で別れた。
その夜遅く。
配給所の倉庫に、昼間の女性が来た。
昨日の男が一人で箱を整理していた。
「まだやってるの?」
「うん」
女性は箱を見た。
「明日、どうするの?」
「分からない」
「また?」
「また」
女性は小さく笑った。
「昔から変わらないね」
男も笑った。
「そうかな」
「そうだよ」
女性は少し黙ってから言った。
「でも、今回はやめたほうがいい」
「何を?」
「みんなを安心させること」
男は手を止めた。
「……どうして?」
女性は答えなかった。
「明日になったら、分かるよ」
「何が?」
「あなたが思ってるより、みんなは何も知らない」
男は女性を見た。
「それ、どういう意味?」
女性は笑った。
「私にも分からない」
そして、倉庫を出ていった。
男はしばらくその場に立っていた。
やがて、箱の中から一枚の紙を取り出した。
そこには、配給所の名前と、いくつかの数字が書かれていた。
その数字は、これまで誰にも公開されていなかった。
男は紙を見つめた。
そして初めて、笑わなかった。




