第231章 信じたかった人
配給所の前には、朝から人が並んでいた。
昨日より少ない。
けれど、誰も静かではなかった。
「今日は何個まで?」
「二つだって」
「昨日はもっともらえたよ」
「昨日と今日じゃ違うんでしょう」
列の後ろで、誰かが言った。
「昨日の人なら、もっとくれたのに」
その言葉に、別の人が答えた。
「昨日の人を探してるの?」
「別に。あの人のほうが話が分かりやすかっただけ」
「笑ってたしね」
「そう。感じのいい人だった」
透は少し離れた場所から、その会話を聞いていた。
昨日、彼が見た男は、今日もいなかった。
代わりに、昨日まで端にいた三人が配給を管理している。
その中の一人が、紙を持って列の前に立った。
「今日は一人二つまでです」
「昨日は三つもらった人がいたよ」
「昨日のことは確認できません」
「でも、あの人はいいって言ってた」
「その人が決めたことなら、その人に聞いてください」
少し冷たい言い方だった。
列の中から、ため息が漏れた。
そのとき、一人の若い女性が前に出た。
「じゃあ、昨日の人を呼んでください」
「今はいません」
「どこにいるんですか?」
「知りません」
「知らないって……」
女性は不満そうに口を閉じた。
透はその様子を見ながら、ふと気づいた。
昨日の男を悪く言う人は、まだ誰もいない。
むしろ、いなくなったことを残念がっている。
その日の夕方。
透は会社の近くの小さな食堂に入った。
席に座ると、隣の席から聞き覚えのある声がした。
「だから、俺は最初から無理だって言ったんだよ」
見ると、昨日まで配給所にいた三人のうちの一人だった。
男は一人で食事をしていた。
透が視線を向けると、男も気づいた。
「ああ、昨日いた人?」
「はい」
「配給所に?」
「そうです」
男は少し笑った。
昨日とは違う笑い方だった。
「大変だったでしょう」
「何がですか?」
「昨日から、ずっと言われてるんだよ。俺たちは冷たいって」
「そうなんですか」
「まあ、仕方ないけどね」
男は箸を置いた。
「昨日の彼は、人当たりがいいから」
「そうですね」
「みんな、あの人のことを信じてた」
「……そうみたいです」
男はしばらく黙っていた。
「でもね」
「はい」
「あの人、配給の数を決める人じゃないんだ」
透は男を見た。
「どういうことですか?」
「倉庫を管理してるだけ」
「じゃあ、昨日『明日もあります』って言ってたのは……」
「本人がそう思ってたんだろうね」
「違ったんですか?」
「違った」
男は淡々と言った。
「昨日の朝、倉庫に残っていた数を見た時点で、三日分はないことは分かってた」
透は黙った。
「じゃあ、嘘だったんですか?」
男は少し考えた。
「俺には分からない」
「分からない?」
「彼は、本当に明日も届くと思ってたのかもしれない」
「でも、届かなかった」
「そう」
「それなら……」
透は言葉を止めた。
男はその続きを待たなかった。
「俺たちは昨日、彼に言ったんだよ。『明日もあるとは言わないほうがいい』って」
「それでも言ったんですか?」
「うん」
「どうして?」
男は少し笑った。
「怖かったんじゃないかな」
「何が?」
「みんなの顔が」
食堂の奥で、皿の音がした。
男は水を一口飲んだ。
「在庫がありませんって言ったら、みんな不安になる。じゃあ、次はどこへ行く? 誰に聞く? 誰が責任を取る? そういう話になる」
「だから、安心させた?」
「たぶん」
「でも、それで今日……」
「うん」
男はそれ以上言わなかった。
透も聞かなかった。
食事を終えて店を出ると、外は暗くなっていた。
駅へ向かう途中、彼女から連絡が来た。
「今日、少し会える?」
透は駅前で彼女を待った。
しばらくすると、彼女が来た。
「どうだった?」
「少し分かった」
「何が?」
透は配給所のことを話した。
彼女は黙って聞いていた。
「じゃあ、あの人は嘘をついたの?」
「分からない」
「珍しい答え」
「本当に分からないんだ」
彼女は笑った。
「そうだね」
「でも、昨日あの人を信じてた人たちは、今日もあの人を信じてる」
「いなくなっても?」
「うん」
「どうしてだと思う?」
透は少し考えた。
「……信じたかったからじゃないかな」
彼女はすぐには答えなかった。
「それも、嘘になるのかな」
「分からない」
二人は歩き始めた。
駅の前を過ぎたところで、透がふと振り返った。
広場の方向には、もう人影がほとんどなかった。
けれど、明日の朝になれば、また誰かが並ぶ。
誰かが配る。
誰かが文句を言う。
誰かが「昨日はもっともらえた」と言う。
そして誰かが、また別の誰かの言葉を信じる。
その夜。
配給所の裏にある倉庫では、昨日の男が一人で在庫を確認していた。
三つの箱を開ける。
一つは空だった。
二つ目には、缶詰が少しだけ残っている。
三つ目には、まだ使える乾電池が入っていた。
男は紙に数を書いた。
そこへ、昼間の三人のうちの一人が入ってきた。
「まだいたの?」
「うん」
「明日の分を確認してる」
「明日の分?」
男は振り返った。
「少ないけど、配れるものはある」
「二つずつ?」
「それは無理だと思う」
「じゃあ、どうする?」
男は少し考えた。
「必要な人に渡す」
「その基準は?」
「分からない」
三人の男はため息をついた。
「また、それか」
「うん」
「じゃあ、また嫌われるよ」
男は笑った。
「昨日は好かれてたから、今日は嫌われるくらいでちょうどいいよ」
その言葉を聞いて、三人の男は何も言わなかった。
倉庫の外では、風が吹いていた。
誰かが誰かを騙しているのか。
それとも、誰も騙すつもりなどないのか。
まだ、誰にも分からなかった。




