第230章 笑っている人たち
その集まりを最初に見たのは、仕事帰りだった。
駅から少し離れた広場に、十人ほどの人が集まっていた。
机が三つ。
折り畳み椅子がいくつか。
その横に、段ボール箱が積まれている。
箱には、食料品、衣類、乾電池、簡単な医薬品などが書かれていた。
その前に立っていた男が、笑いながら話している。
「今日は余っている分だけです。必要な人は遠慮しないでください」
周りの人も笑っていた。
「いつも助かります」
「本当にありがとう」
「こういう人たちがいると安心するよね」
透は足を止めた。
その男は、誰かに声をかけられるたびに笑っていた。
「大丈夫ですよ」
「もちろんです」
「また次も用意しますから」
言葉の一つ一つが柔らかかった。
その場にいた人たちも、安心したような顔をしていた。
透は少し離れたところから、その様子を見ていた。
すると、隣を通った年配の女性が言った。
「今の人たちはいい人よ」
「そうなんですか」
「ずっとここで助けてくれてるの。前に困ったときも、食べ物を分けてもらったから」
「そうなんですね」
「反対に、あっちの人たちはね」
女性が顎で広場の端を示した。
そこには、三人の男女が立っていた。
誰も笑っていない。
一人は腕を組み、もう一人は段ボールの数を確認している。
残った一人は、配布の列を見ながら何かを紙に書いていた。
「あの人たちは、いつも細かいことばかり言うの」
「細かいこと?」
「誰に何個渡したとか、次はいつ来るとか。そんなことばかり」
女性は少し呆れたように笑った。
「困っている人に、そんなこと言う必要ないでしょう?」
透は三人を見た。
そのうちの一人が、こちらを見た。
目が合った。
男は軽く頭を下げただけだった。
笑ってはいなかった。
透も頭を下げた。
それだけだった。
その夜、透は彼女と食事をしていた。
「今日、変な集まりを見た」
「変な?」
「食料とかを配ってる人たち」
「へえ」
「すごく感じのいい人たちだった」
彼女は箸を止めた。
「感じがいい?」
「うん。ずっと笑ってた」
「それで?」
「……それだけ」
彼女は少し考えてから言った。
「笑っている人が嫌いなの?」
「そういう意味じゃないよ」
「じゃあ、どうして気になったの?」
透は答えに迷った。
「周りの人が、あの人たちはいい人だって言ってたから」
「それだけ?」
「たぶん」
彼女は笑った。
「透って、人のことを考えるとき、たまに周りの人の評価から入るよね」
「そうかもしれない」
「じゃあ、本人は?」
「本人?」
「その人が何をしたかは見たの?」
透は黙った。
見たのは、食料を配っているところだけだった。
「……見てない」
「じゃあ、まだ分からないね」
「うん」
その翌日。
広場には、昨日と同じように人が集まっていた。
ただ、昨日と少し違っていた。
箱が少ない。
そして、笑っていた男もいなかった。
代わりに、昨日端にいた三人が机の前に立っていた。
列の先頭にいた女性が言った。
「昨日はもっともらえたじゃない」
紙を持った男が答えた。
「今日は一人につき二つまでです」
「どうして?」
「残りが少ないからです」
「でも、昨日はまだたくさんあったでしょう」
男は少し黙った。
「昨日の分は昨日で終わりました」
「そんなの、おかしいじゃない」
周囲から声が上がった。
「いつも配ってくれるって言ってたじゃない」
「明日も用意するって聞いたけど」
「そうですよ」
昨日の男を探す人もいた。
けれど、彼はいなかった。
そのとき、端にいた別の男が言った。
「昨日の人が何を言ったかは知りません。でも、今日ここにあるものはこれだけです」
「あなたたちは冷たいのね」
女性が言った。
男は何も言い返さなかった。
透は少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。
昨日と同じ場所なのに、空気だけが違っていた。
そして、昨日笑っていた男がいないことだけが、妙に気になった。
その日の夕方。
会社で同僚が言った。
「昨日の配給所、知ってる?」
「うん」
「あそこ、揉めたらしいよ」
「どうして?」
「配ってた人が、かなり無理してたらしい」
「無理?」
「知らない。そういう噂」
透は返事をしなかった。
少しして、別の同僚が口を挟んだ。
「いや、あの人たち、最初から怪しかったって」
「そうなの?」
「笑いすぎなんだよ」
「笑いすぎ?」
「誰にでもいい顔してたじゃん。普通、そんなに親切にできないだろ」
その言葉を聞いて、透は昨日の広場を思い出した。
笑っていた男。
笑っていた人たち。
そして、笑っていなかった三人。
どちらが本当のことを言っているのか。
透には分からなかった。
帰宅途中、駅前で彼女に会った。
「どうしたの?」
「昨日の人たちのこと、少し気になってる」
「配給の?」
「うん」
「調べる?」
透はしばらく考えた。
「……まだいい」
彼女は少しだけ笑った。
「珍しいね」
「何が?」
「前なら、すぐ調べようとしてたと思う」
「そうかな」
「うん」
透は広場の方向を見た。
「でも、今のところ、俺が知る必要があることは何もないから」
「それなら、それでいいんじゃない?」
二人はそのまま歩き出した。
その頃、広場の裏側では、昨日笑っていた男が一人で箱を運んでいた。
そこへ、昨日の三人のうち一人が来た。
「もうやめたほうがいい」
男は箱を置いた。
「何を?」
「『明日もあります』って言うの」
笑っていた男は、少し困ったように笑った。
「でも、そう言わないと、みんな不安になるだろ」
「不安になるからって、ないものまであるように言ったら、あとで余計に困る」
「分かってるよ」
「分かってない」
男は黙った。
三人の男は箱の中身を確認した。
残っているのは、昨日よりずっと少なかった。
「本当に、もう余裕がないんだ」
「分かってる」
「じゃあ、どうして笑ってた?」
笑っていた男は、少し考えた。
「笑ってたほうが、みんな安心するから」
「安心したまま、明日になったら?」
男は答えなかった。
三人の男も、それ以上は言わなかった。
誰が正しいのか。
その場にいる誰にも、まだ分からなかった。
ただ一つだけ確かなのは、
昨日、みんなが信じた言葉の中には、
今日になっても残っているものと、
もう残っていないものがあるということだった。




