第二百二十五章 返さなかったもの
土曜日の朝、透は机の上に置いていた工具を会社へ持っていった。
昨日見つけたものだった。
誰かから借りたものなのか。
いつ借りたものなのか。
考えても、はっきり思い出せない。
昼休み、透は工具を持って事務所へ行った。
「これ、誰のか分かりますか?」
事務担当が工具を見る。
「見たことあるような気はするけど……」
近くにいた社員も覗き込んだ。
「それ、前に使ってた人がいたな」
「誰ですか?」
「名前は忘れた」
「今、いる人ですか?」
「分からない」
透は工具を机の端に置いた。
「じゃあ、ここに置いておきます」
「うん。それでいいと思う」
午後になっても、誰も取りに来なかった。
仕事が終わっても、そのままだった。
透は持って帰ろうかと思った。
しかし、持ち主が分からないものを勝手に動かす理由もなかった。
翌週に聞けばいい。
そう考えて、そのままにした。
帰り道、駅前で小さなフリーマーケットが開かれていた。
古い本、食器、服、工具、家電。
値札のないものもある。
「これ、いくらですか?」
若い女性が古いラジオを手に取った。
「それは五百円」
店主が答える。
「動きますか?」
「分からない」
「分からないんですか?」
「古いからね。一応、電池を入れてみたけど、音は出なかった」
女性はラジオをしばらく見ていた。
「じゃあ、やめます」
「うん」
店主は何も言わず、ラジオを元の場所に戻した。
少し離れたところでは、男性が古い工具を見ていた。
「これは使えます?」
「たぶん」
「たぶん?」
「見た目は問題ない。でも、実際に使ってみないと分からない」
男性は工具を買った。
「壊れてたら?」
「そのときはごめん」
「分かりました」
二人とも笑った。
透はその会話を聞きながら歩いた。
分からないことを、分からないまま売る人もいる。
分からないことを知った上で買う人もいる。
それで成立することもある。
夜、彼女から電話が来た。
「今日は何してた?」
「フリーマーケットに寄った」
「何か買った?」
「何も」
「珍しい」
「欲しいものがなかった」
「それもいいね」
少し話してから、彼女が言った。
「そういえば、前に借りた本、まだ読んでない」
「返さなくていいの?」
「返さなきゃいけないけど、まだ読んでないから」
「いつ読むの?」
「分からない」
透は笑った。
「じゃあ、まだ持ってるんだ」
「うん」
「そのうち返せばいいね」
「そうする」
電話を切ったあと、透は机の上を見た。
工具は家にはない。
会社に置いてきた。
持ち主もまだ分からない。
それでも、返す必要があるものだということだけは分かっている。
分からないからといって、全部を急いで決める必要はない。
返すものは返す。
返せないものは、返せるまで置いておく。
透はそう考えて、明日の予定を確認した。
そして、電気を消した。




