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嘘の向こう側  作者: 亀


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第二百二十四章 決めなかった人

金曜日の朝、会社に一人の男性が来た。


以前、この職場で働いていた人だった。


事務所で何かの書類を受け取っている。


「久しぶりですね」


同僚が声をかける。


「久しぶり」


「戻ってくるんですか?」


男性は少し笑った。


「まだ決めてない」


「また働く可能性はある?」


「あるかもしれない」


「じゃあ、戻ってくればいいじゃん」


「そう簡単でもないんだよ」


男性は書類を封筒に入れた。


「今の仕事もあるし」


「そっちはどう?」


「悪くない」


「じゃあ、そっちに残る?」


「それもまだ決めてない」


同僚は少し困った顔をした。


「ずいぶん決めないな」


男性は笑った。


「決められないんじゃなくて、今は決めなくてもいいと思ってる」


その言葉を聞いて、透は少しだけ顔を上げた。


男性は事務所を出ていった。


昼休みになっても、その話が何度か出た。


「戻ってくる気はあるんだろうな」


「本人が決めてないなら分からないよ」


「でも、どっちかには決めるだろ」


「いつかはね」


午後、上司が来週の作業について説明した。


「来週の後半に変更がある可能性があります」


「何が変わるんですか?」


「まだ決まっていません」


「じゃあ、今は?」


「今週と同じです」


「分かりました」


説明はそれだけだった。


帰り際、透は朝の男性と駅で会った。


「今日はありがとうございました」


男性が言った。


「こちらこそ」


「昔の職場に来ると、変な感じですね」


「そうですか?」


「自分の席がまだ残ってるような、残ってないような」


男性は駅のホームを見た。


「でも、戻らないかもしれない」


「そうなんですね」


「戻ったほうがいいと思います?」


突然聞かれて、透は少し黙った。


「僕には分からないです」


「そうだよね」


男性は笑った。


「自分でも分からないんだから、他の人に分かるわけないか」


「でも、戻りたいなら戻ってもいいと思います」


「うん」


「戻りたくないなら、戻らなくてもいいと思います」


男性はしばらく何も言わなかった。


やがて、


「それだけ言ってもらえると、少し楽だな」


と言った。


電車が来た。


二人は別々の車両に乗った。


夜、彼女と食事をした。


「今日、前の会社の人に会った」


「戻るか迷ってる人?」


「そう」


「透は何て言ったの?」


「自分で決めればいいって」


彼女は箸を止めた。


「それ、前の透なら言えなかったんじゃない?」


「そうかな」


「たぶん」


透は笑った。


「たぶん、そうかも」


「その人、どうするんだろうね」


「分からない」


「気にならない?」


「少しは」


「聞かないの?」


「本人が決めることだから」


彼女は何も言わずに頷いた。


食事が終わる。


店を出ると、駅前の掲示板に新しい求人が貼られていた。


「経験者優遇」


「未経験者相談可」


二つの文が並んでいる。


透は一度見ただけで、そのまま歩いた。


誰かが決める。


誰かが迷う。


決めないという選択もある。


それがいつまで続くのかは、その人にしか分からない。


透は、自分の歩く方向だけを見ていた。

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