第二百二十三章 借りたもの
木曜日の朝、会社の入口に見慣れない自転車が置かれていた。
銀色の古い自転車だった。
誰かのものらしいが、持ち主の名前は書かれていない。
「これ、誰の?」
同僚が言った。
「昨日からあるよ」
「誰か借りてきたのかな」
「分からない」
昼になっても、自転車はそのままだった。
午後、作業場の隅から一人の社員が出てきた。
「あ、それ俺の」
「ずっと置いてあったけど?」
「昨日、駅から借りたんだ」
「誰から?」
「知り合い」
「今日返すの?」
「今日じゃない」
「いつ?」
「まだ決めてない」
同僚は少し笑った。
「ずいぶん長く借りるな」
「向こうも使ってないから」
「それ、ちゃんと聞いた?」
「一応」
「一応?」
「使っていいって言われた」
透はその会話を聞きながら作業を続けた。
夕方、自転車の持ち主だという別の男性が会社に来た。
「すみません。昨日、自転車を貸したんですが」
社員が出てくる。
「ああ、俺です」
「今日返してもらえると思ってたんですが」
「今日?」
「昨日、今日返すって言ってませんでした?」
「言ったっけ?」
二人とも少し黙った。
「じゃあ、今返します」
社員は鍵を取り出した。
「すみません」
「いえ」
男性は自転車を受け取った。
帰り際に、
「また必要なら言ってください」
と言った。
「ありがとう」
男性が帰ったあと、同僚が言った。
「話が食い違ってたな」
「うん」
「どっちが間違えてたんだろう」
透は少し考えた。
「分からない」
「そうだよな」
それ以上は誰も話さなかった。
帰り道、透は駅前の自転車置き場を通った。
貸し出し用の自転車が何台か並んでいる。
その横に、
「返却時間を守ってください」
という案内があった。
透は足を止めた。
時間を守る。
借りたら返す。
簡単なことのように書いてある。
けれど、人によっては「今日」が朝なのか夜なのか、話した時点で違うこともある。
ルールがあっても、すべての行き違いをなくせるわけではない。
その夜、彼女から連絡が来た。
「今日、友達に本を借りた」
「いつ返すの?」
「まだ決めてない」
「また借りたんだ」
「うん。でも今回は返す時期をちゃんと聞いた」
「何て言ってた?」
「読み終わったらでいいって」
「それなら分かりやすいね」
「でも、読み終わるのがいつかは分からない」
透は笑った。
「そうだね」
少しして、彼女が言った。
「透は、借りたものを返すの早いよね」
「そうかな」
「昔から?」
「たぶん」
「たぶん多いね」
「そうだね」
二人とも笑った。
電話を切ったあと、透は机の上を見た。
そこには、以前誰かから借りたままになっている小さな工具があった。
いつ借りたのか、すぐには思い出せない。
透は工具を手に取った。
明日、会社へ持っていこうと思った。
持ち主が分かれば返せばいい。
分からなければ、聞けばいい。
それでも分からなければ、しばらく置いておけばいい。
借りたものには、返すという行き先がある。
ただ、その道がいつも最初から見えているとは限らなかった。




