第二百十七章 なくした時間
木曜日の朝、駅の時計が止まっていた。
針は六時四十二分を指したまま動かない。
透はスマートフォンを見た。
六時五十八分。
「故障かな」
近くにいた男性も時計を見上げていた。
「遅れてる?」
「駅の時計だけみたいです」
男性はスマートフォンを確認した。
「じゃあ、時間は大丈夫か」
そう言って改札へ向かった。
透もその後ろを歩いた。
ホームに着くと、電車は予定より少し遅れていた。
案内表示には、
「車両点検のため、到着が遅れております」
と出ている。
五分後、電車が来た。
乗客の一人が駅員に聞いた。
「何分遅れですか?」
「現在、約七分です」
「いつ戻りますか?」
「分かりません。確認中です」
乗客は時計を見る。
「分かりました」
それ以上は聞かなかった。
会社に着くと、同僚が言った。
「今日、遅刻扱いになるかな」
「電車が遅れたなら大丈夫じゃない?」
「でも、証明書がない」
「駅でもらえるんじゃない?」
同僚は少し考えた。
「帰りに聞いてみる」
午前の仕事が始まった。
昼前、会社の掲示板に新しい紙が貼られた。
「本日の始業時刻について」
公共交通機関の遅延によって到着が遅れた場合は、担当者へ申し出ること。
証明が必要な場合は、各交通機関へ確認すること。
同僚は紙を読んでいた。
「最初から書いてくれればいいのに」
「今、分かったからじゃない?」
「まあ、そうか」
午後、駅から連絡が入った。
朝の時計が故障していたらしい。
交換部品が届くまで、しばらく使用できない。
帰りに透が通ると、時計の下に小さな紙が貼られていた。
「現在、時計は使用できません」
その下に、
「時刻は各自でご確認ください」
と書かれている。
透は少し笑った。
朝は、みんな時計を見ていた。
けれど、その時計が正しいとは誰も確認していなかった。
それでも、普段は困らない。
いつも動いているから、正しいと思っていただけだった。
駅を出ると、朝の公園に老人がいた。
「今日は時計が止まってたね」
老人が言った。
「知ってたんですか?」
「見てたよ」
「何時だと思いました?」
「分からない」
老人は笑った。
「時計が止まってるのに、時間だけ正確に分かるほうが不思議だろ」
透も笑った。
二人でしばらく時計のない空を見上げた。
「時間って、見えないね」
老人が言った。
「そうですね」
「でも、なくしたと思うことはある」
透は老人を見る。
「時間を?」
「うん」
老人は少し考えた。
「昔、忙しくて、何年か何をしてたか覚えてない時期があった」
「忘れたんですか?」
「全部じゃない。ただ、細かいことが残ってない」
「後悔してます?」
老人はしばらく黙った。
「分からない」
それから、
「後悔してると言えば、後悔してるような気もする。でも、その時はその時で、そうするしかなかったんだろうな」
と言った。
透は何も返さなかった。
老人もそれ以上話さなかった。
少しして、老人が立ち上がる。
「じゃあ、また」
「はい」
透は駅へ向かった。
家に帰る途中、彼女から連絡が来た。
「今日、予定が一つなくなった」
「残念だった?」
「少し」
「じゃあ、別のことする?」
「もうした」
「何したの?」
「寝た」
透は笑った。
「それもいいね」
「うん」
少し間があって、
「予定がなくなると、最初は時間を失った気がする」
と届いた。
「でも?」
「何もしなくていい時間が増えただけかもしれない」
透は画面を見た。
「それなら、悪くないね」
「そうかも」
スマートフォンをしまう。
止まった時計を見ても、失った時間が戻ってくるわけではない。
けれど、時計が止まったことと、時間そのものがなくなったことも違う。
透はそんなことを考えながら歩いた。
家に着く。
机の上では、名前のない木の鳥が夕方の光を受けていた。
今日は少し遅い。
それだけだった。




